毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
神奈川の湘南の海とは異なった風情を、冒頭での描写において巧みに表現されています。それに次いで早稲田の学園祭の模様が描写されていますが、実は、こうしたところに私も顔を出していて、早稲田は懐かしいです。ということで、海です。打ち寄せる波と、小瀬り合うデモ隊の、なぜか反響するようなところが目に浮かびます。淡々とした文章なのに、当時の大学の、その学生の心の風情を普通の「文章」だけで、ここまで深く表現していることに感心しました。当時、私も中央大学から早稲田に応援にいっていましたから、懐かしいです。みんな、頑張りましたね。(ついつい、学生運動の方に逸れてしまいました。もっとも、海と波で相性は合うかも)
とても小気味よい文体で、心地よいし、うまいなあと感じました。けれども、作品の意味がよく読み取れませんでした。構成はされたのでしょうけれど、もしかしたら、作品の途中から、なぜか作者の気持の方が作品高尾に飲み込まれてしまい、制御できなくなったのかもしれません。まあ、そのくらいになって、小説は上達するのですから、それはそれで面白いものです。末尾の「あなたに虫を飲ませた人は」→「さぞ大きくそだっているでしょうね」は、作品を締めくくるのに大成功しています。「重みが充分に乗った圧が、肩を叩いた」は見事な締めになっています。
なかなか、意味が深くて読み取れません。韓国人と日本人とのやり取りの顛末なのですが、それか「測雨器」として象徴されています。なんとなくわかるような気もしますし、わかなくもあります。分からなくても、雨を測る器だと、そのまま読むなら分かった気になるでしょう。でも、それでは、作品は面白くありません。わかったような気分にはなりますが、よくよく分かろうとすると、本当のところは分からない。そのことが分かると、この作品の面白さが伺えるのですけれど、分かった所で、何処にもいきつけないのです。それは、測雨器が測雨器なのですが、他と他なのです。
祖父の「じいじ」と、孫の美咲ちゃんの、お話です。視点は、孫の美咲ちゃんからです。じいじがいて、じいじには娘がいて、その娘が産んだ孫が美咲ちゃんなのです。その「じいじ」は長生きはできないと悟っていて、孫娘に伝えます。「生きていくってつらいことが多いよ、だから、楽しむだけ楽しんで悔いのないように生きていけるといいね」と。そこで、「じいじ」の小学生の頃の初恋 の人、タチバナカオルちゃん。なのですが、「わたしは――じいじの手を両手で握っていた」のです。じいじにとっては、とてもうれしかったでしょうね。それに、とても優しいお孫さんです。
すごいですね。この作品は『さくさく』が始まって以来の ―長編作品―となりました。一遍、一遍に当たってきたわけではありませんが、シリーズが17篇となりますと、1000頁を超え、原稿用紙換算にすると3000枚でしょう。とにかく、頼もしい作者です。なにしろ、タイトルが『女性とお金』ですから、縁を切ろうにも切れず、切ろうものなら、それこそ張ったり切ったりにならざるを得ないでしょう。資料の活用、事実だけではない応用力というのでしょうか、それが巧みです。こちらは読み手ですから、作品を読みながら考えます。女性とお金、さて、とちら方に分があるのか。そりゃあ、女性でしょう。いえ、いえ、心からそう思います。
「机に下があって文」「柳に取りすがる井戸に埋まる」「あえかな客体の輝きが」「海を越えて号砲を鳴らすので」「装備を新たかにして」「文語の話を聴きながら」「優しい口笛を」「静かな故郷に鳴り響かせて」「大らかにも倒れていく」「沢山の人から」「雨に打たれて靴が脱げると」「もう過去には飛翔するしか方法がない」「扉の輝きに溢れる情感を感じていると」「複数のことから逃げていくので」「もう忘れるより他にはないと思う」「雨の中靴が光り水溜まりには太陽が映じる」「複数の経路からの」「夢の残渣」。――雨に打たれて靴が脱げると/もう過去には飛翔するしか方法がないのだけれど……さて、です。雨と靴。
どんな作品なのか、しっかり理解しようとして、眼に/逢わぬ/めがね、と、読むと、それは「行く春や 眼に逢わぬめがね うしなひぬ」の句のなかにあらわれ、なるほどと納得させられます。間違ったら恥ずかしいのですが、「眼に逢わぬめがね」の意味合いは、「眼」と「めがね」が逢わないということですよね。これは、意味をストレートに取らずに、頓知的なお遊びをされいる「句」ということなのでしょうか。詳細はなく、以前は眼に逢うめがねが、逢わぬめがねになった、悲しいかな、年を重ねてたということなのでしょうか。ということで、しみじみとした「春」です。
みごとな「エセ―」ですね、と称えてしまってはいけないような、考えさせられる作品でした。すごく、短い作品なのに……。私はアンドリュー=ワイエスなる画家をまったく知りません。芸術には疎いのです。SKさんは、美術に堪能なのでしょう。この作品、『記憶の家』のタイトルは、とてもよいですね。頭の中にはあるけれど、もうなくなってしまっている。その感じだけがある。この作品を読みながら、子供のころを思い出しました。その頃は、道端に地蔵様のような石が無造作にあったりしていました。単なる無縁の石なのか、墓石なのか。今では、それが一つもありません。