2026年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月15日(日)
  • 例会出席者:8名

ほしかげ

不思議な「小説」だなと感じました。書かれているのは、不思議でも、なんでもない、日々のことなのですが、それがポンッと「飛ぶ」のです。飛ぶって、それは非日常のことなのですが、それがさも日常のことであるかのように書かれ、作品の「そこ」「ここ」にあるのです。道路、歩道、街路樹、退職後の人生、それに繰り返される記憶、根っこと、上肢を切り推した樹木、書かれるべきものは、街の風景として書かれるのですけれど、なぜか、空虚に・無思考的に描写されます。星影は天井にあるけれど、この「ほしかげ」は地上というか、みのまわりにある「ほしかげ」なのです。

あなたに善いことが起こるトリック

作中にいろいろな提起がなされているのだが、それが不思議と実を結ぶことはせず、なぜかタイトルにあるがごとく、「トリック」としてむすばれる。この作品を小説として読み始めたのですが、なぜかエッセイなのかと感じ、エッセイに向かうように正してみたのですが、最後まで「何か」わかりませんでした。結末で、客待ちをしていて、発車を待つのですが「交叉」します。――降り間違えてまた乗り直して来る客を待つ――に窺える重層性には、なんだろうと考えさせられます。一連の登場人物はリアルですが、他者のいない存在空間みたいなものを感じさせられ、興味津々です。

潮だまり

作品の一行目に、「海よりの風は、ひっそりと時を渡っていた」とあります。 二行目には「確かに一度訪れた場所のはず」と、心の巻き尺を解きほぐすように測ってみます。 この二行に、この作品のすべてが包含されているのではないかと思わされ、とても感動しました。なによりも、「海よりの風は、ひっそりと「時を」渡っていた」の描写は、いつまでも心の中に浮かぶ弟の面影を忘れられないように、心打たれます。この作品がいつ書かれたのか、気になります。なんでもないときに、「あんちゃん」なんて声が届いたりしますと、うれしいものです。

夕立にお愛想

一か月が三月になり、九年経ったところでの現在から、つまり気の長い持ち主現れずのその絶たれていた九年が動きはじめるのです。目の前の傘を見て、「あっ」「これは私の」と、私の傘とのご対面です。この作品にある「九年」という時間が未消化な感じがしますけれど、そこのところは省略されているととれば、納得です。「一カ月が三月になり、九年経ったのか」は、特に、一カ月が三月になり、九年経ったのか。の、九年は、おそらくはとても長い九年だということが実感させられます。また、末尾のページにある「文学フリマどうだった」には、とても懐かしく思い出されました。

家出 その後の運勢 4 (完)

『家出 その後の運勢』の完結、おめでとうございます。また、お疲れ様でした。 それにしても、なんの保証もなく九州から東京へと、希望に燃えて飛び込んで行くたくましさにはビックリでした。当時の、日本全体が社会の変化期を迎えていたのでしょう。空からのビラ撒きはダメ、には、そうだったのかと、数十年ぶりにあれやこれやと「知った」しだいです。「ヒロはどこにおるんね。息子ば返さんね!」は、母が母であることの真骨頂でしょう。戦後を生きたという思いは、よくよく考えるととても深いものとなります。平和を生きたってことなのですから…。

ファイナル・ラン

文章には、目に見えない現実のものを、目に見えるものとして現わすことのできる力があります。もっとも、それは誰でもができるというわけではなく、なんと言いますか、心の純粋さが現わすところの幻影みたいなものなのでしょう。この作品はそこのところの部分をくっきりと現わしていて読ませます。一文、一文を手のひらで包み込むような描写されていて、とても大切な時間だったということが、丹念に書かれます。段落ごとに込められている、それそれの物語が、その時、その時を彷彿とさせて、後になって繰り返して思うと、ただ、うれしくなります。

映画日記 71

映画日記71(2025年3月×日)を皮切りに、6月×日までの鑑賞作品は、なんと『70作品』に及びました。4ヶ月で70作品ですから、驚異的です。合評会の席上で、この作品は観た、観なかったと感想等々を交えて話されるのですが、「観た」と言われる方は1、2名といったところです。坂本は、ほとんど見てなくて、いつも肩身がせまく感じられます。ちなみに感想を鮮明に記憶しているのは、『戦争と平和』と『ゴッド・ファーザー』でしょうか。日本映画では、高倉健のやくざ映画と、渥美清の『フウテンの寅』が好きでした。4作品並べると、横綱や大関の風格がありますね。