2025年5月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:5月18日(日)
  • 例会出席者:6名

驟雨

 いつもの高尾山の山登りの報告記と思って作品に入りましたけれど、これは何だ、どうしたのだ、といった理解不能に陥り「やむをえず小休止」です。作者は、とんでもない難儀な驟雨に見舞われてしまったのだなと、まずは同情的に考えたのですが、それは、そうなのですが、これを推測するに、作者が「何を書いてきたか」を鑑みるに、答えは一つで、高尾山を記録してきたのです。ところが今回は、高尾山にではなく、高尾山だけど山ではない、緻密なデータを数値化するような「仕事」を報酬を得て取り組んでいるのです。人生が百八十度転換させられてしまい、それでもがんばるのですけれど、いつもの高尾山を取り戻さないと、天狗に攫われてしまいますよ。

生きざま 2

 とても難解な専門用語と言ったらよいのか、ナトリウムとかマンガン、無機系個体電解質の、などと、こちらの理解度を超えたキーワードが登場するのです。それでいて難解だとは感じさせないのですが、そこは作者の筆力なのかもしれません。なぜ、このような感じの作品になったのか、考えて見ました。すると、事件は難しいですけれど、それに重点を置かず、それぞれの登場人物の「立ち位置」に重きを置き書かれた作品なのではないかと、気づかされました。事件は解決するのですが、読者として気になるのは「木下主任」のことです。事件が解決してみれば、一番の被害者は木下さんで、東大寺さんはそうした女性の描き方がとてもうまいですね。

右隣の彼女 4

 いつも不思議な作品だな、と思いつつ読ませていただいています。小説の設計と言ったらよいのか、いかように書くか、そうした取っ掛かりの仕方が、作者はとてもうまいのです。とりあえずタイトルを例にだして述べますと、「右隣の彼女」は、会社の社員が縦にも横にも並んだ机に座り、全員が前を向いて仕事をしているのです。机は前と横しかないのですが、「右隣」(右隣の列の1個前)にいる女性です。ややこしい、ですね。でも、そのややこしいということがミソです。この作品にはいろいろな登場人物がいますが、いましたが、それらは、登場しては消えてしまうのです。それにしても、かわべり喫茶店を懐かしく思い出します。消えた彼女も、とても印象深かかったです。

風は見ていた

 とても心に響く作品ですね。風は見ていた/風は見ていた/風は見ていた、と三回続きます。もちろん、三回続いたということは、何回もずっと続くということでしょう。また、座頭市でいうなら、おてんとうさまが見ている、というのと一緒です。道端に、今は少なくなってしまいましたけれど、お地蔵様がいます。道中の無事を祈るものだったのでしょう。「みんなが無事に」と言う心配りは助け合い精神そのものです。日本って、そうした善意で隈なくつながっているように感じます。もっとも、思い上がりはいけませんね。感謝、感謝で、慎まなければいけません。強風に耐えてこられた作者なのに、この作品のような心温まる詩を胸の内に温めていきたいものです。    

待花賦

 とても難しい作品ですね。文法みたいなものがあって、微妙な約束事があるようで、そのことを知らないと、どうも内々まで見通すことができません。間違いを恐れずに推察すれば、一連目は、まだ春が来ないといった文意にとれます。二連目は、桃の花はどうだろう、桜の花はいつ咲くだろうか、まだ北風が吹いて、鶯のさえずりを消してしまう。三連目には、枯芝も青芽を出して、土に根を張り、雀がさえずっている。こうして、やがて東でも咲かせて欲しい。と読んだのですが、とても、とても、心もたないです。一連目と三連目に「梅」が詠まれていますが、梅は春の花の代表です。梅の香りは鼻からはいり、体の隅々まで浸透して、春を幸たらしめるのです。

家出、その後の運勢 2

 戦前に生まれ、もの心がつく頃を多感な少年として、また青年として育った、そうした貴重な時代の感覚がすごく伝わってくる作品でした。友人に佐賀県出身の方が多くいますけれど、大変なことを話題としつつ、そのことを笑い飛ばすかのように話してしまう、そうしたあっけらかんさには笑ってしまいました。九州人と東北人は、その素朴な感じは似ていますけれど、その表現が異なっています。まあ、前向きなところと、包み込むような慎重さ、そうしたところです。「家出、その後の運勢」ということで、「2」まで来ました。「3」もあるでしょうし、「5」くらいまで、あるいはそれ以上かもしれません。まるで昭和史を見ているようで、とても楽しいです。

「心」を見つめて

1から10まで、個々の教えの言葉をたどり、⑪において、石川洋さんと西田天香師の問答で締めくくられて終わります。⑴の「心の鏡」は1996年の記であり、(2)の「宇宙との対話」は1993年の記であり、(3)の「自分を大きくすること」は1998年の記、(4)の「一隅を照らす」は1999年記で、(5)の「菩提心」は2004年記です。(6)の「河井寛次郎」については2005年記。(7)の「伎芸天像」(2007年記)、(8)の「雲海」は2008年記。(9)の「金木犀の花」(記載年月日はありません)、(10)の「葛城古道」は(2014年記)、(11)の「石川さんと西田天香師」では人助けや・自分助け、その天の合理みたいなものが展開されます。1996年記。となっています。人にも天にも通じる天の道の締めくくりと言った作品です。        

あなたは使命に癒される

 とても面白い題材に取り組まれていると思いました。でも、読んで行くと展開が性急すぎるような感じがします。作者が見つけて、掴んだテーマや、そうした思いつきを幸いにも得たのですから、もっと、じっくり書かれたら、かなりすばらしい作品になったのではないでしょうか。冒頭に、「死者の魂を呼び出すための儀式」といった入り方は、性急すぎると思います。地味な精神分析医に「何かが…」みたいな道筋で展開されると「リアル感」がいくぶん出るのではないでしょうか。もしかすると、作者の発想力が旺盛すぎて、作者自身が自分の発想に戸惑ってしまったのかもしれません。重くて怖い作品になる手立も、軽くて楽しい作品になる手立も、両方ある作品だと思いました。

ソングバードの恋 5

「でもいつかは必ず夢から覚める」
「だからこそ大きい方がいいのさ」と、ソングバードの僕は歌い、その歌があまりに懐かしかったからなのか、小鳥であった「あたし」の歌が、思いが吐き出される。音楽が、リズムが、メロディーが、人、人、客、客、僕、彼女、音、音、音、笑い声、その一つ一つが不思議なほどに絡み合い、……、議論して、論争して、答えを見つけようとして、見つけたと思ったときもあったけれど、家も大学も、街頭でさえも、自分のいる場所ではなくなってしまい、声も無く、歌い忘れたリズムだけが顎の下あたりに止まっている。大きな空白となって……。