毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
図書館建設の様々な顛末から書き出され、幾度かの火災にもメゲズに立ち上がって行く、北海道建設の涙ぐましい顛末が綴られた作品でした。それにしても、火事の多さには「?」でした。なぜたろうかと質問しましたら、西村さんから、〈丁度、函館は風の通り道になっていて〉と説明され、わからないなりに、納得した次第です。図書館建設・また運営、明治・大正・昭和における函館の発展を岡田健蔵の視点にて書かれているのですが、ありきたりな言葉であらわすなら、明治の男は「すごい」の一言です。本を大事にする、そこに書かれた知識に触れる、刻む、そうした小さな営為を積み重ねる価値を知る。明治の日本の涙ぐましいがんばりがとても感じられる作品でした。
とてもいいおはなしですね。アンちゃんと、みすずちゃんと、ばあばと、三人のお話です。「みすず」ちゃんは、とても「アンちゃん」をいもうとのように可愛くおもっています。ばあばは、孫のみすずちゃんを大事にしているのです。ところがたいへんです。「アンちゃん」がいなくなってしまったのです。消えてしまったのです。でも消えるはずはありません。その消えた「アンちゃん」はスーパーの店員にひろわれ、待って、たぶんみすずちゃんを待っています。スーパーで。まいごになったみすずちゃんの放送が、スーパーでなされます。解決。よかったです。みすずちゃんのたいせつな子、アンちゃんは、無事にみすずちゃんのところにもどってきました。
北上遥の作品は、いつでも北上遥の文体で書かれています。そんなの当たり前ではないかと言いますが、でも、北上さんだって、いつも、いつもしっかりしているわけではありませんから、ついつい、お使いに行って、川を渡って、道端にきれいな花を見つけたりしたら、ごめんねと、お花さんに許可を得て摘んで、髪飾りにするかもしれません。それで、行商人の『キンコマ』さんが、あれ以来こなくなったのかもしれないではありませんか。ちょうど『キンコマ』さんの羽振りがよくなって、自転車からオートバイに換えたころでもありました。北上さんは、とてもナイーブな女性で、戸惑いの笑顔をつくることがありますが、そんなときは、まばたきをしてかくすのです。
なかなかの長編詩です。朝の、機嫌のわるい木枯らしが落葉を舞い上げるのです。その風にあおられながら、バスがやってきて、そのバスの乗車口付近にも落ち葉は舞い込み、乗客に踏まれはしないかとびくびくしていて、誰か、落ち葉の一人でも外へ逃げ出せば……夜になって風がやみました。車内の靴に踏まれた図柄はステキです。その図柄を写真に撮ると、木枯らしに送ってくれとせがまれ、アドレスはわかるかと問われ、わかるとこたえ、送信するけれど返事はこなかったのです。バス停でバスを降り、歩いていると、「写真、見たぜ」と声がします。木枯らしの声でした。でも、見上げても見えるのは、すっかり葉を落とした枝越しに「冷たい月」が光ってるばかりでした。
すごく論理的に書かれた作品だと、圧倒されました。でも、その理屈がわかりませんでした。当方は、全くの機械音痴ですので、そうした機械的なものには、まったく歯がたたないのです。自転車には乗れますが、車も機械いじりもお手上げです。それにしても、文章構成が整然とした論理のように感じ、作者にはなんとなく頭が下がる思いがしました。そこで自覚するのは、私は「怠け者」だということです。私が怠け者だということを、私以上に知っているのは、実質的な文学市場の代表にあたる「坂本和子」でしょう。この作品に出合って、「わからないものはわからない」って済ませてはいけないのだ、ということを改めて自覚させられた次第です。勉強になりました。
政治の話は難しいです。〈読書雑記58――劇場型政治〉にて、いろいろと名前があがっています。石丸信二、小泉・橋本劇場、野中広務、田中角栄、福田元首相等々。この中で私にとって好感のもてる政治家は田中角栄だけです。まあ、主観的なことですが、「うそをつかない・国民を見る」こうした点では誠心誠意にやってくれたのではないかと思います。他の方達も、一生懸命にやられたのだろうとは思うのですけれど、余計な茶々がはいったりしてしまうと、「折れる」場面がそれなりにあったのではないかと、どうしたものか、思えてしまうのです。かつて、ジャパンアズ№1と盛んに言われていましたけれど、一人当たりの国民所得は韓国や台湾に抜かれて、ちょっと残念です。
とても初々しい作品ですね。こんなに純な作品が書けるって、すごい事だと思います。スト―リーや描写に、特にすばらしいと思えるところはなかったのですが、そのシンプルさがストレートに心に響いてきて感動させられたのです。ぼくのことを佐倉さんは「内田くん」と呼びます。ぼくは佐倉さんのことを「佐倉さん」と呼びます。因幡薬師に行って、二人で行った、そんな普通のことなのですけれど、佐倉さんも、内田君も、二人の間の「恋」を初めて実感することができたのではないでしょうか。初々しい純愛小説ですね。蛇足ですが、平等寺は『真言宗智山派』に属するということですが、私の実家の墓も、真言宗智山派のお寺ですので、ハッとしました。
おもしろい趣向の作品です。でも、なぜか、読み取れなかった箇所が二か所ありました。P311下段2行目~4行目。「引用した名人の一文と、あの時の名人の一文は、一言一句同じように見えてまったく別物なのだ」。それと末尾の三行。「名人の作品は、最初から最後までが「あ」だけで構成されたもので、観客たち審査員を恐怖のどん底に叩き込んで沈め……」の二か所は、理解不能でした。「引用した名人の一文」と「あの時の名人の一文」とは、「引用した」と「あの時」の違いなのですけれど、そのことだと思うと、なるほどなあと思えるのですけれど、なるほどなあと思えたなら、この作品を楽しめたのだから、それで満足だと、作者は心得るのかもしれませんね。