2024年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月15日(日)
  • 例会出席者:14名

青い涙

 小学校一年生の僕と、小学校六年生の昭男ちゃんは、従弟同士です。夏休みで昭雄ちゃんは僕の家に来ていて、夏のおわりが近づき、近くの山にある清沢城を一緒に探索しようと出かけるのですが、ひょんなことで、昭男が行方不明になってしまいます。ということで、舞台は『サーカス』となります。記憶喪失になった昭男のクセは〈襟元に親指を当てて他の指を広げるポーズ〉なのですが、穿った見方をすれば、それが照男の《自己証明》のようなものです。そのポーズを取り戻したとき、そのポーズの中に昭男は昭男に戻るのでしょう。

ぽんぽこ

 今回の作品の構造は、とても新奇なもので、こちらの頭がついていけません。目に見えてわかるのは、会話文です。普通の場合、会話文は、「   」「     」と、カギカッコで閉じられるのに、この作品においては「地の文章」となんら変わらずに表記されていきます。なぜなのか。考えてみました。もしかしたら会話の、心の通じ合いの否定の上に成り立つ「作品」なのかなと横道にそれて考えましたけれど、それも、やっぱり邪道のような気がしてわかりませんでした。P65上段9行目の、「来る」/「行く」は何か。永続する「気持」だと、ほんわかしてとてもよいのですが。

告白するぼくと振る彼女

 はじめてお目にかかったような、奇想天外な作品でした。「喫茶店で十五時に待ち合わせをしていた」と、作品は幕を開け、スタートします。十四時四十分だったり、十四時四十五分だったりのスタートなのですが、すべてが解決する肝心の十五時になると、どうしたものなのか、壊れるはずのない時間が壊れ、リターンしてしまうのです。14時56分。‥‥14時58分。‥‥15時となった瞬間、時間は進まなくなり、巻き戻しがかかって14時30分に。これを時間の現象と捉えることもできれば、現象の時間と捉えることもできます。時空の現象となると、難しい作品ですね。

生きざま

 基本的には企業小説です。ですが、今現在の日本や世界のことを考えると、なにかしら経済を超えたところの諸々が絡んでくるのではないかと、わくわくします。主人公は二上大輝と渡辺大輔の二人の視点でしょうか。作者にとっては、なにか運命を賭けた果し合いのような心持なのではないでしょう。現実の日本経済も、世界経済も、この4~5年で何かしらの決着がつくのではないかと感じられるからです。こちら、読者側は大いに楽しませていただけると、うれしいばかりなのですが。日本の顔だった「車」に焦点を当てて、その復興を作品上で楽しませていただきます。

ぼくたちの奔走 16

 作者の書く作品は、いつも前向きです。それを「すっ」と書けるのですからすごいです。148頁下段の末尾にある「あの世があるのは希望だ」には、読んでいて、変に実感しました。なぜ、こんなに短い言葉にかんどうするのか、考えてみました。会えなくなった、つまり亡くなってしまった親や子ども、友人に、心から話しかけると返事が心にかえってくる…。ということで17歳の「ぼく」は生きているのです。「あの世」=「この世」は、もしかすると仏教的なことなのかもしれません。作者の世の中を見る目って、山から下界を見るようなものかもしれないと感じました。

ゆるりゆるりと (完)

 18歳にての「ぽちお」の冥福を、心よりお祈りいたします。犬や猫を人は飼いますが、猫にしても犬にしても、なんら人間とかわらない愛情を持ってしまいます。それがなぜなのか考えもしませんでしたが、「ぽちお」と長年暮らすことによって、ぽちおは犬ではなく〈ぽちお〉そのものとなった、そのものとは「犬=ぽちお=友だち」にです。それ以上かもしれません。ワンちゃんを抱っこして、ワンちゃんの気持がわかる。ワンちゃんにも、ご主人の抱っこする気持ちがわかる。そんなときの至福感は最高ですよね。 ありがとう……です。

秋の歌

 なかなか、耽美的で難解な詩です。一連目の末尾は〈秋の道〉となっています。うるわしい女人がしなだれているような南天。秋の道。と歌いだされます。二連目の、蜘蛛の巣の朝風にゆすられた天の羽衣のようだと、織り人を偲ばせる秋の風。三連目では、稚児のような手では届くこともできず、秋の空。四連目では、夕暮れの、なおむらさきいろに香は立つものの、人は見えじ秋の月。五連目は、とても、むつかしいです。一連目から四連目まで、空へ、空へと、なんとなく月を求めて心躍らせていたのに、何事かに逆転してしまうのです。底へと帰るらむ/つぎは深みを得て。

読書の苦しみ

「読書の苦しみ」とは、不思議なタイトルだと思いながら読み進めました。冒頭で紹介されているのは友人が、退職まで十年となり、退職までに「千五百冊の本を読む」ということだったそうです。なんと、その読書計画はスムースに運んだのですが…。ところがです。一年に百五十冊の読書とは、「読書の楽しみ」なんてものではなく、まさにタイトルの通りの「読書の苦しみ」の現実にギブアップです。文章を書くこと。本を読むこと。庭の植木の手入れ。そのうちの過重な読書計画を、作者は放棄されたそうです。我が家には作者からのプレゼント、赤い実の万両がとても美しいです。

おにぎり

 作風が変わりましたね。これまでは自分から発する文体でありましたが、それが、自分と外界をつなぐ視点が芽生えて、そこに視点人物たる工藤さんがいるかのようです。なぜ、このように変化されたのか考えました。あまり勘はよい方ではありません。素直に受け取れば、心安らいだ気持ちで祖母の死を、また故郷を受け入れた、ということではないでしょうか。東北の「米」は美味しいとききます。なんとなく考えるに、寒暖差といいますか、北国の気候が頑張屋さんの米になるのではないでしょうか。この作品は、工藤さんにとって記念となる作品になるでしょう。