毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
端正な言葉で綴られた祝福の言葉です。出会いがあり、別れがあり、再開があり、祝福を。いつとはなく出会う喜びは、命の祝福であり、互いの心のぬくもりに包まれ、包むしあわせ。あなたもわたしも、夫も妻も、親や子も、それぞれがそれぞれの場所で懸命に生きて、次の出会いでは互いの労をねぎらい笑顔で再会しましょう。夫婦だけの家族。それが子供が生まれ、幸福に包まれた家庭となり、子等は結婚し、家から独立して、やがて夫婦は祖父や祖母となり、年をとった分だけ幸せです。タイトルの「再会」の趣旨は、祖母と祖父が「孫」と再会する喜びのことですよね。
……と、平和を孫たちに語りたいけれど、実情はそのようにはなっていなくて、語るに語れない実情に、ごめんなさいと、孫に謝らなくてはなりません。それにしても、本当に人間って戦争が好きですね。戦争はダメ。平和を、といつも言っているのに、なぜ戦争に走るのかわかりません。あまり具体的に述べるとまずいのかもしれません。日米同盟は、それだけならいいのですけれど、岸田総理は、その先にでてしまい、西洋にまで関与してしまったのは、おそらく整合性のとれないところまで入り込んでいるのかもしれません。平和でありたいものです。
電車の中です。夫婦が登場します。それから二十代と思しき医療関係者の男が二人‥途中から乗車してきます。夫はビールを飲み続け、何度もトイレにいき、また飲みます。二人組の男は、「よい旅を」といい、下車する。娘の夫の「こめひと」が、駅で待つ夫婦を迎えに来る。赤い車だった。どのように赤い車かはわからず、ただ、ピカピカの車だとのことだ。赤い車には救急車のイメージがある。その点を線にすると、電車の中の二人も医療関係者で、これから夫は病院に直通するのではないかとイメージされる。「彗星」の星言葉は災いだそうで、その流れ星のような作品なのかも。
◎クラスの人数のことが話題になり、55名は多すぎると言いましたら、私以外の出席者のすべての方が55名前後の数字をだしたのには驚きでした。小学校も中学校も43名くらいでした。いっぱいいたということは、楽しいこともいっぱいあったんだと、みなさんで懐かしく思い出していたしだいです。
◎思考回路とは何かと考え、それを「自分劇場」ととらえる思考をすると、すごく「自分」を応援したくなります。自分にはっぱをかけるのではなく、応援する。自分を見ている自分が、客観的に自分に頑張ることを授け、応援をするのです。
正月がおわり、静かになったわが家の夫婦ですが、骨休めの温泉旅行を思いつきます。日本海側にある「ねむの花シーサイドホテル」です。何かを感じさせる「時間と空間」が漂います。高校の同級生だった高橋昌司の出現が日常のままの中に滑り込んでくるのです。なかなか見事な導入でしょう。おそらく異次元的な小林崇志と高橋昌司の出会いなのですが、…確かな出会いです。結末では、高橋昌司は存在しないことに落ち着くのですが、あいまいなままに元に戻ったのです。ねむの花が夜間に葉と葉を閉じるように、瞼を閉じた、その一瞬を描いた幻想作品で、堪能いたしました。
そんなことがあるのかと、考えさせる作品です。車は運転できるが、電車に乗る仕方がわからない。確かに変です。確かに変だけれど、あるかもしれない逆転された事件なのかも? 電車と車、車が日常となってしまうと、電車に乗らなくなり、乗り方を忘れてしまう。こうした顛末を東北弁で現すと、すごくリアル感が表現されて、ついつい、笑ってしまいます。方言の描写をするだけで、作品の文体をあらわすことができるのだと、この作品を読んで、始めて理解しました。ということは、自分の根っこに持っている言葉をふつうに書くならば、自分の文体になるのですね。
深海魚のような車に乗り、そのハンドルを握る純一。後部座席に座る二人。二人は純一の友人で夫婦。京香と博太です。この作品の主人公は、純一の隣りに座るべき、純一の妻であり、彼女は、人間の脳にまつわる万病に対応出る治療薬開発の中心人物でした。その湾岸の公園に向かってドライブしているのです。純一も、京香も、博太も、その彼女を殺したのは自分だと思っています。なにしろ、人間の脳の真奥のことですから、真実はいとも簡単に虚偽に変わってしまいます。死んだ、殺された彼女は「女神」になるでしょう。純一と京香と博太の複雑な脳神経の奥底にて。
今回の作品のタイトルが「野草迷走」で、「〇そう〇そう」の反復だなと思ったとたん、変なことに感心しました。ずっと高尾山に行かれていながら、そこに自生する植物を「持ち帰った」が作者には一度もないらしいのです。根のあるものは遠慮しても、小枝ぐらいは、と思ってしまう人は、きっと沢山いるでしょう…。高尾山が好きで、元気をもらい、楽しませていただいている、という感謝の気持ちだけで十分なのかもしれませんが‥‥。たしかに高尾山はやさしい山です。小さな山であるにもかかわらず、植生に関しては世界一なのだとテレビでみました。名山なのですね。
冒頭の「祖父からは、いつも生命の匂いが漂っていた」は、祖父の死に際しての40歳を過ぎた〈ゆうたくん〉の記憶からの描写・表現なのですが、この作品が含んでいる長い時間を端的に表しています。農村風景や、農村での付き合いや、時代の進む肌ざわり、などなど、農民の生きた歴史がとても大切に表現されていきます。この時代になると利根川の氾濫はなくなっているのでしょうが、風景描写を通して、なんとく、そうした苦労などが刻まれているように感じました。読んでいると、農村風景と農道をとぼとぼと歩くさまが見えてくるようで、不思議な感じがしました。丁寧な描写がなせる業なのでしょう。戦前と戦後、そして戦後と戦後の終焉、現代へのとば口へと、いろいろなものが永らえて、歴史のようなものを考えさせられました。
この作品に描写されている風景は、現在の農村からはすっかり消えてしまっています。それだけに〈美しい農村風景〉を味わせて頂きました。