毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
冒頭の部分で革マル派とか中核派とかでてくると、なんとなく違和感を感じますけれど、それは今の感覚で、あの当時には屈託なくそうした話題を話し合っていたことを思い出します。どことなく自由でした。戦後がおわり、自由をもっとも謳歌していた時代だったのではないでしょうか。とはいえ、世の中はせちがらいもので、社会に新たに参加する若者にとっては難儀なものです。不思議なことが末尾近くに一つあります。「はるさん」の仙頭の刺繡にくるまれた「もの」なのですけれど、それが存在してない=事実は、いかにも不思議です。はるさんは指で触れていると書かれながら、のにです。なんとなく、金魚坂に何らかの不快因縁があるかもしれず、続編が楽しみです。
すごく難解な作品です。P69下段の会話の部分。「証明できるのか?」「看取れたかを、か?」「そうだ」「一緒だろ」「何?」「看取られたか自覚できるか?」自信の有無は問題ではない。の「看取れたかを、か?」と「看取られたか自覚できるか?」の二つの会話文で、主客が入れ替わってしまったというか、自己と他者とがイコールで交叉してしまっていると感じました。すごく難しいです。難しいので、間違って理解しているかもしれませんが、いかようにも、どうにもなりません。米井さんの描く作品は、書けば書くほど難解になってきているように感じます。難解な作品に挑戦するのはよいのですけれど、志賀直哉風のやさしい作品にも挑戦されることも、お勧めしたいです。
とてもシンプルな作品です。孫娘が祖母の家に立ち寄り、ごちそうされてお母さんの待つ家にバスで帰る、という、とてもありふれたお話です。祖母、娘、孫娘、この並びが女同士でホンワカします。そこに、祖母からの「施設に入るから」との打ち明け話が出て、娘はバスに乗り家に帰って行くのです。なんてことのない作品です。でも、こんな風な小説って、胆力がないと書けないものです。バスに乗った孫娘を見送った祖母は、道の街路灯や、家々の灯のついている家や点いてない家も見て、家へと帰るのです。こんな時に祖母が思い描くのは、施設に入ったら、孫娘は来くれるだろうかということでしょうか。とてもよいお孫さんです。きっと面会に行かれます。
作者による、この長距離を走る列車の詩を読んで、近い将来、長距離を走る列車というものが様変わりするのではないのかと、そんな、危惧を感じました。単に、より便利になるのでしたらよいけれど、長距離が細切れにされたりするのではないか、そんな心配をするのです。ところで…です。作者の書かれているのは、まるで長距離列車に対するラブソングのように響きます。長いレールのつなぎ目ではありませんが、平野を走る時、橋を渡るとき、上り坂や下り坂、海を見渡し、街を駆け抜け、その都度、その都度、列車が返す反応はマチマチで、鉄道ファンには満足そのものだと思います。長距離だけではなく、都電のような電車の詩もあってもよいのではないでしょうか。
複数というか、だいぶ複数で、かなり複数ですね。「郵便ポストが傘を差して歩く上に」だけでも、「郵便ポストが」「傘を差して」「歩く」「上に」と、4つにも文節、分解できてしまいます。「静かに眠る薬の名を、私はげっぷして忘れました」となると、留まるところがわからなくなってしまうのです。その言葉の群れは、「他者」「他者」「他者」「他者」「他者」と異常な〈複数〉です。しかも、縁のない言葉が接しているのですから、問題にはなりませんが、幸福にもなりません。でもです。言葉ってものは行き着く先を嗅覚で探し出します。そうです。末尾の僕はチーズをするのです。そうです、そうです、「温かい君の声に合わせて」チーズ=にっこりするのです。
戸籍謄本のこと、初めて知りました。大使館とか領事館に提出するのでしょうか、いわれてみると納得です。外交的に秀でた血筋に生まれということで、作品などから交際上手なところを感じていました。また、「自叙伝 自分史 回顧録」のコーナーでは、なんといっても、読書するスピードには驚きました。しかもです、けっして暇ではない、とても多忙であるにもかかわらず、全集を短期間で読了してしまうなんて、すごい集中力をお持ちなのですね。入院している一週間で、全七巻の『藤枝梅安』を読み切るなんてほんと驚きです。私だと、一冊がせいぜいでしょう。おそらく根っからの読書好きで、人の何倍もの集中力に恵まれてのことだと推察いたします。
人が人であるところの基本を暗中模索して真実にたどり着く作品なのではないかと、読中に感じていたのですけれど、読み終わったときには、それとは別のものであることに、驚きました。憎しみしかなかったであろう東条を「放したまま」おわるのです。読者は東条なるもと伍長に、天罰が下ることを期待して読み進んできたでしょうから、この終わり方には驚きです。すこし時間を挟んで考え直してみますと、そうではない、どうにもならないことは「神」に任せるしかないと思い、このような結末にしたのではないかと、受け取りなおしました。せっかく東条にたどり着きながら、東条の言葉が一つもないことも、そこには作者の思いがあり、終わったけれど、終わらないのです。
短い作品なのに、読むのにかなり難しいです。普通の作品ですと地の文があって、その地の文に彩を添えるように会話文がある、というのが一般的です。ところが、この作品には地の文というものがありません。冒頭の文章で述べるなら、まずは2行〈既に彼女はそこにいた。/テキーラサンライズ〉〈僕は少し離れて座った。/そしてジントニック〉とあります。そこに挿入語「おやおや坊や。これじゃあ彼女に……」と、通常の一般的な綴り方をしていない文章で、とてもアカラサマナ言葉、展開がそこにあります。こうしたことをちゃんと伝えるためには、沢山の言葉が必要でしょう。…省略しますが、この作品は詩でしょう。タイトルの語から歌といってもよいのかも。