2024年7月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:7月21日(日)
  • 例会出席者:5名

エッセイなのかな

 はて、さて、世界一の身長の高い男のお話です。小学生の時点で屋根に手が届くというのですから、巨漢です。最終的に身長は275センチメートルだったそうで、かなり不自由だったのではないでしょうか。そこで作者は親切心なのか、お墓の心配をします。その遠い国のロバートワドローさんのことを心配するのですけれど、どこか、日本の規格に合わせて心配されているのです。外国では土葬が普通なのでは? そして普通の墓の2つ分なら十分可能なのではないでしょうか。金はかかりますけれど。それと、火葬を前提にすると、かなり残酷なことになってしまいます。2つ分の墓ですから、土葬でも大丈夫です。とはいえ、そのようなニュースに接すると心配せずにはおられませんね。作者は、いろいろと心配されるのでしょうか。優しい心の持ち主なのですね。

黒マジック

 なかなか難しい作品です。僕の一日が/綺麗に終わると/黒マジックで/消えた僕の心象には/兵隊の動く学校があって/新しい日/数えながら/演技している。の意味は、斜線で区切られた数だけあって、個々の意味は鮮明ながら、全体となると抽象の中にうもれてしまいます。「黒マジック」とさまざまな「現実」があります。黒マジックで太い一本線を引き/眉毛のような線は愛だというより他の言葉はなく僕には確たる証もなく。平行線が黒くあるのです。P277上段15行目「ゆっくりと氷解する分母の中に、私は見つけることが出来ず、妻のことを優しさで包んで温めている」は、どうやら希望の兆しのような感じがします。私は私なのです。太い線と、眉毛のような細い線。その僕と貴方の平行な線がいつまでも、「愛」のままであるといいですね。

石器人の旅

 冒頭の2行と本文の218行とが相対し、220行の長編詩を構成しています。この作品は横書きだったそうです。それを縦書きに直す際に、どうしたわけか一字上がったり、二字下がったりとしてしまったそうですが、そのことによって「石器人」の生きた時代の途方もない長い「時間」を現すことができて縄文を髣髴とさせられました。ところで石器人とは何者なのか。野暮を承知で申し上げれば、なんとなく、作者自身なのではないかと思います。俗世間の何もかもを捨て去って、山や野を散策する様を「石器人」と託ったのではないでしょうか。その石器の中には、捨てても捨てても戻ってくる何事かがあって、それは形に現れず、歩いて行くと、在ることも無いことのように思われて、身軽くなり、220行も元気に歩くことができるのですから、とりあえず幸いです。    

残響

 この時代って、変な話ですけれど、漫才が一番受けた時代だったのではないかと、ついつい、考えてしまいました。石油やガスの業界、当時はなかなか先端的な業界だと感じていました。ところが現代において読むと、何か、あらゆることを人間が直接的に動き、物事を進めていたのだなあと、なにやら人間味を堪能させられた次第です。人間はたいして進歩もしていないのに情報機器が発達し、人間の出る幕がほんの少しになってしまったのだと実感しました。人間対人間が、人間対コンピーターになり、それを通り越して、コンピーターとコンピーターで物事を進めているのかもしれません。その御かげで人間の出る幕が限られてしまい、企業は利益を増やしています。この頃、テレビで漫才があまり放映されていません。すったもんだの人間的なドラマを観たいものです…。

瑠々々

 かなり変わった作品です。なお、ちょっと奇異な主人公の瑠々です。作品のタイトルは『瑠々々』で、それを理解するなら瑠々々々々と、どことなくルルの無限級数に編み込まれていくのです。わたしとわたしで、わたしはあなたに、あなたはわたしに、なのですけれど、あなたもわたしも瑠々々と同じで、瑠々なのです。ところが「3」章に入って異変が生じます。「瑠々」と「瑠々」が隣り合って立っていますが、一人の瑠々は老け込んでいます。もう一人の瑠々は加齢の攻撃をいなしています。時間のズレみたいなものなのでしょうか。小説の究極は「わたし」を書くことだと思っています。その「わたし」が複数存在する空間は「壊れる」そうで、哲学なのか物理学なのか、難しいです。「ルルルルルルル‥‥」を想像すると、瑠々は自分の中に永久に迷子になってしまいます。

珈琲

 コロナの時のてんやわんやをいろんな風にデフォルメした作品なのかなと、読みました。作品は三つのパートに書かれています。まずは現在。次に四年前の追想。そして戻って現在です。珈琲店の店主であるおばあさんの小うるさい感じは、その店にいたなら小うるさく感じるのでしょうが、作品として読むとあまり昔堅気すぎて懐かしくさえ感じます。野鼠のところで、おばあさんはあたふたしますが、感染症をとても恐れているのでしょう。もしかしたら、ご主人なりをそうした事で亡くされているのかもしれません。お子さんやお孫さんのいる雰囲気もありませんから、ついつい、そうした読後感を持ってしまいます。冒頭の「ふだん歩いているときに気付かないような場所にあるのは、宝物ではなかった」は、もしかすると作者の戸惑いのようなものなのかも…。

映画日記 66

 相変わらず驚異的ですね。4か月で57作品を鑑賞されています。実際には、この数の倍くらいの映画を見ているそうですから、度肝を抜かれます。今回紹介された作品でとても感動したのはP197の『草原に抱かれて』でした。長男の共同住宅にいるころ母には俳諧癖があったのですが、次男のアルスが母を引き取り、母の希望する故郷に連れて行きます。母はそこで若返ります。これは、おそらく、若い頃の自分を思い出し、その若い頃の自分にかえることを心で体験することで、わかがえるのでしょう。アルスは徘徊する母を自分とひもでつなぎとめていたのです。母が、かつて生きていた人たちに手招きされたとき、ひもを切る。お別れのときでした。この映画に関してのコメントを読んで、とても感動しました。映画評を読んで涙が溢れたのは初めてのことでした。