毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
シリーズ4を迎えて、改めて「太陽ジャイアンツ」とは何かと考えて見ました。そこに感じるのは日常なのですけれど、その日常の〈構成〉がとても巧みです。学校。学校は、いわずと知れた学びの場です。警察。町内会。目下のところ出番が少なくなっているお寺。日本人のチーム。外国人のチーム。……ということで、今回考えさせられたのは、ピッチャーと打者です。「第一球…。パン! ストライ!」、「第二球…。パン! ストライ!」、という反復は、普通の作品ですと多くは省略されてしまうのですが、とても丁寧に書かれています。なぜかと、考えて見ました。すると、ああ、そうなんだと合点しました。この場面こそが、野球の一番重要な場面なのだと。単調かもしれないけれど、このピッチャーと打者との対決が、野球の最大のショーなのです。一丁目一番地。
卒寿になって、卒寿を迎えた自分をどんな自分なのかと探ってみた、といったような趣の作品なのかなと思いました。その前に、卒寿、おめでとうございます。考えてみなら、あれこれとあるけれど、そうしたいろいろを考えたところで、とにかくおめでたいです。年を取ったということをおめでとうと言われると、気分を害するかもしれませんが、作者は子供の頃から生きることに一生懸命だったし、生きることがとても巧みでした。まあ、作品を読みましたので……。でも、作品を読むと、奥様のお元気なのにはビックリです。「あなたこの期に及んで死に急いでいるように見える」は、何事にも動ぜない若さに溢れた感じがします。なにはともあれ、長寿のこと、おめでとうございます。さて、次なるは100歳ですね。私の友人の父は、103歳で自転車に乗っています。
私は音痴なので音楽に関してはちんぷんかんぷんなのですが、なぜかモーツァルトに気持ちが引っ掛かりました。モーツァルトの音楽にはやさしさがある。その事だけは中学生の頃に感じていました。モーツァルトはそうだけれど、音楽部の面々は、そうはいきません。音楽の美しさを体験しつつ、その音楽を奏でようとする面々の、美に背くような振る舞いに接すると、くじけてしまいそうになるのも現実です。高校を卒業してからの大学や、社会人になって、音楽教員、つかまえて見失い、またつかまえて、しっかりと手にした音楽の「音」、は……この作品は作者の自伝なのではないかと読み進めつつ、自伝なのだという実感が深まりました。小説を書くことで言葉がわかり、音楽のその音の優しさや強さがわかるって、素晴らしいことですね。(坂本は音痴です)
気負ったところのない、エッセ―のように綴られた作品です。とんちゃん、聖子ちゃん、あっちゃんの仲良し三人組で、それぞれが、それぞれで、三原色のような配置なのではないかと思いました。その青空はいろいな変化をみせたのですが、一つ一つの体験、その時々の体験が青空で、仲良し三人組は三色なのに、互いに混じり合うと「青」の空なのでしょう。記号の「*」は、記号として、なぜか「雪」をイメージさせられました。何回も、何回も雪で、晴れ間の「青空」がひらくような感じをほうふつとさせるのです。子供の頃、風景とか町並とかは、いつも見馴れたもので永久に変わらないものだと思っていましたけれど、10年ごとに、そして30年も経つとすっかり変わっているのには、「ふるさとがうばわれた」思いになります。構成の巧みな作品でした。
不思議な作品で、スーパーのような趣で人が、様々な従業員が持ち場を持ち役割を消化するのだけれど、その各々のつながりや連携というものがなく、個々のママに描かれ、全体へと姿を現すことも、極端なところ支え合うといったものもないのです。利益の追求も、サービスの提供といったものもないのです。だとするなら、シュールな世界かというと、シュールの世界に結ぶまでにもなりません。職場の各々の役割や関係性はあるのですが、お互いに領分を共有することをしません。タイトルの『箱』のごとく、皆が箱に入っていて個々なのでしょうが……。システムの中で、そのシステムは会社でも人間でもなく、そういったものとは別系統の「何者」かが要所々々での急所をつかみ、静かに…、静かに…、支配しているのかも…。 (わかりませんでした)
なかなか難しい作品でした。読んで行くと納得するのですが、その先までちょっと読み進めると、崖から落ちたような別世界に迷い込んでしまうのです。もっとも、そのような構成の作品ゆえ、「相似界」なのです。接ぎ穂のような種々の記憶や思考をすることが、できるかどうかわかりませんけれど、まあ、普通はできないのですけれど…。ということで、作品なので、それに挑戦してみようとの試みにはすごいなと思いました。結論みたいなものにたどり着けたなら幸いです。手に汗握って見守りたいです。目の前にある現実に、現実でないものが、接ぎ木のように、確実に生を成すさまはワクワクさせられます。相似界ですから、相似形の世界が無数にあるのでしょう。なんとなく思うのは、数が増えれば増えるほど、相似界は不安定になるのではないかと…無事だといいですね。
永井荷風って考えても、いくら考えても、よくわからない作家です。作家だから芸者に対して斜めからみていたのではないかと、思っていましたけれど、駒本さんの書いた永井荷風に接すると、確かに常人離れしたところがあり、自分の中ではいつも筋が通っていた、筋を通した判断しかできず、けれど、その判断が常人からすると異常だったのかもしれません。いいもわるいもなく、女好きの一言でしょう。芸者遊びをしていた時も、浅草のストリップ劇場通いも、同じで、筋が通っています。ただ、そこに人間的な交流があったかといえば、なかったでしょう。ただ、永井荷風を殿様とみれば、絶えず永井荷風は相手に対して温情を持っていたのでは? そういった永井荷風は作家なんだなと思います。駒本さん、永井荷風を書ききってください。いつも楽しんでいます。