毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
タイトルの『事故物件』、その事故物件の主である「明夫」がいて、名前は出てこないが明夫の妻、そして男が登場してきて、結局のところ男と妻の共謀による明夫殺しという結末を迎えて、おわります。作品が、妻と、妻の愛人が共謀しての夫殺しの顛末で、何ら問題もなく完結したために、事件ともならずに平穏が保たれて…妻と男の海辺の生活が続くのでしょう。白い箱のような家に、白い柱石のような二階が乗っている家とは、まるで墓石のような形状の家です。それに、作中にて名前があるのは「明夫」だけなのですが、それにも意味があるのかもしれません。つまり、死んでしまったのですから墓石に刻まなければなりません。ゆえに『明夫』なのです。妻と男の関係は、金なのか、性的なものか、そこのところはわかりません。わからないのが現世というものでしょう。
タイトルの『秋の日の夕暮れ』は、作中の事件の起こった〈飛鳥山公園〉の風景にとても合致していて、美しい情景として目に浮かんできます。そこの付近にある(実在するのかどうか?)城北女子高等学校は、工業科のみ‥‥工業科で女子高校というのは、実在するとすれば日本で唯一なのかもしれませんね。『北区内田康夫ミステリー文学賞』に、ペンネーム・一原拓海で応募されたそうですが、文学市場の同人だった新開拓海さんは何回か北区文学賞に勝ち抜いています。もしかしたら『拓海』というのはまずかったかもしれません。まあ、御愛嬌でしょう。描写において一人称の場合と、三人称の場合とがあります。視点人物を一人にして展開させると、自ずと定まってくるのではないかと思います。跨線橋は、ユニークな景観なので、もっと力説してもよいのでは‥‥。
作品では、透明人間がいるように書かれていて、その実、いないのだけれどいるように展開されています。そこのところが怖いのです。なおかつ、現実の世界がこの作品の写し絵として類推できるのも怖く、そんな現実よりも透明人間がいて、なんだかんだと活躍してくれ方が、よっぽど親しみやすく感じられるくらいです。タイトルが揮っています。透明人間/禍、です。「透明人間」と「禍」の間に「/」が入っています。透明人間というのは、国民が錯覚を見せられてしまっているもので、見せられた結果が「禍」なのではないかと考えます。作者は、二重、三重に物事を、牛若丸の八艘飛びではありませんが、読者の思考の先々へと出来事を連ね、読者を呆然とさせてしまうのです。まあ、具体的に述べますと、透明人間禍とはアメリカのことを思い浮かべます。
幸田文の作品を読んだことがありません。でも読んだことがあるような気もします。その「気もする」という感じは、とてもよい作品との思いの中に、読んだかもしれないとただ思うのです。明治から昭和の初めころの日本文学には、自然の中の人間、みたいな土台があったのに、昭和が遠くなるにつれ、人間だけの世界になって、どこか文学がしぼんでしまっています。そこで幸田文の『木』です。よくよく見れば、P184下段4行目。「えぞ松は倒木の上に育つ」と記されていますが、そもそも植物のすごさはそこにあります。ある意味では動物の食肉連鎖も同じようなものでしょう。このように書いてしまうと、そうなら、人間も素晴らしいということになってしまいますが、そうなってもいいのですけれど、見たものの美しさやありがたさに感謝し対面できてからのことです。
ボヘミアンという言葉の響きが好きです。そのボヘミアンという言葉がどこからきているのか、読んでいきますと、エニアグラムの9つの性格タイプの中から、その4で自分を特別と思う、それから5での「孤立」、この二つを合わせると、確かに、なんとなく梅琴さんに重なっているように思われます。ボヘミアンとはロマのことで、ネット検索したら自由人とありました。女性歌手が歌った「ボヘミアン」という歌を私は、自由を喚起するところあって好きでした。でも、面白いですね。確かに梅琴さんはボヘミアン的なのですけれど、この作品のように緻密な分析をするところはドイツの学者か技術者のようです。末尾の辺りで、奥様はタイプ9というのは、ぴったりだと思いました。「平和をもたらす人」。ボヘミアンと平和をもたらす人のコンビは、御夫婦として最高です。
なんてことはないのだけれど、冒頭の部分をぼおっとみていると、この作品の全容が浮かんできます。キーワードが「かわべり」です。川べりなのではなく、かわ=時間と捉えて、いつも瀬戸際にいるということでしょうか。野宮さんとわたしは、最初、野宮さんが女性でわたしは男性と読んだのですけれど、二度目に読んだときには、ふたりとも同舟の女性なのだと思いました。私が男だと、作品は切なさを感じさせて終わるのに、わたしも女性だとすると、職場の仕事の奴隷労働を感じてしまい、さて、さて、左隣の女、前の女、左後ろの女と続くのかと、まあ、覚悟して読ませていただきます。平易な言葉でもって、目の前の日常を可視化する表現力はすごいなあ、と感じます。名前のない会社で、同僚を「野宮さん」と名前で呼ぶ「わたし」は、とてもやさしいです。
よく理解することができない作品でした。登場するのは、パパと僕と彼と彼女ですけれど、場面に登場しているのは僕と彼と彼女の三人だけです。成り行きは、僕と彼女が今夜を共に過ごしそうになるのですが、「ただし、隣の坊やは置いて行くんだ」と、御破算になるのですが、「家で帰りを待っているガキのおもちゃ代にでもしなよ」の締めの言葉もよくわかりませんでした。シュールな場面なのか、それとも文章の必要な言葉が抜けてまっているのかわかりません。100パーセント満たされているパパと彼女なのに、時間も満たされて、性的なものが崩れたところでの、良いのか悪いのか、互いが囀るのです。パソコンで『ソングバードの恋』と打ちましたら、なにやら映画のことらしいです。とすると、前衛的な映画だったのではないかと、イメージがふくらむのです。