毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
聖徳太子の1万円札が50年以上続いて、席を福沢諭吉に譲ったというお話は、もう随分と忘れてしまったことなので、とても新鮮に感じました。まあ、現在、目の前に並べて比較すると、格の上で福沢諭吉は聖徳太子に後れをとってしまうのではないかと思います。ところで千円札の夏目漱石です。確かに、お札の夏目漱石は福沢諭吉に比べると温和な表情で、人間的に上等な感じがします。それは聖徳太子に通じるものがあるように思われるのですが、いかがでしょうか。お札の顔に関しての、日銀と大蔵省のしたたかな陰謀論を開陳してみます。聖徳太子はよいのだけれど、聖徳太子の一万円札を大事にしてしまって、流通が滞ることは経済を悪化させる‥。早く使ってしまえと、浪費をすすめる。日本の経済の今日・明日は万々歳だと、肖像画選定をしているのかも。
P117下段6行目、「法性は「死」を厭わなかった~「死」の同化。これこそが法性にとっての朽ち方ではなかったか。」と著わし、西行の歌を引用します。 来む夜は 心のうちにあらはさむ あかでやみぬる 月の光を 死と生の世界を跨ぎ詠んでいる、潔い歌なのではないかと推察いたしました。 今回で『神楽木法性伝』は修了するようですが、理で解決されない多くのものを残しての【完結】でみごとです。ただ理解できるのは子どもたちの法性を迎える合唱、 「ほうせいさん、ほうせいさん、 ほうせい、ほうせい、ほうせいさん」 この掛け言葉には、言葉自体が「橋」となってあちらの世界こちらの世界の法性とつながっているように思われます。たいへん難しい作品の完成、お疲れさまでした。
『緑の鳳翼1』から、今回の『緑の鳳翼2』にて、随分と展開が繰り広げられた感があります。一番大きな変化は、蒼空が県下の有名進学校から農業高校へと進路変更をしたことです。イチの母親が、イチがお世話になっている施設に勤めはじめたことも、風景(ふるさと)をなんというか際立たせる何事かになっています。『緑の鳳翼3』に向けて、作者は、より難しい方向へ舵を切ったものだと、正直なところ、はらはらしています。でも、作者はちゃんと手を打っているのかもしれません。イチのお母さんが施設に勤め出したのは、そのための一手なのかもしれません。人は一人では生きていけません。いろんな人がいて、様々なことが生じて、それでもなんとかして道を見つけるのです。友達や肉親。イチと蒼空が同じ日に産まれたというのは、そもそも超自然的な出会いです。
北上川の流れのように、北上遥が気持ちのままに言の葉を綴ったコーナーです。今回は四題、『加賀の女』『異界・麻綿原高原』『練習 ひとりぐらし』『粽は布石か』のお話でした。1、『加賀の女』は何事かありそうは怪しい雰囲気を醸しつつ、旅先の人情に触れて満喫できた旅行でした。2、『異界・麻綿原高原』は、関東随一を誇る紫陽花が咲く名所だとのことですが、まったく知りませんでした。地元の人も知らないのですからお手上げなのですけれど、奥の奥の、その奥にあった麻綿原高原の紫陽花は‥その母の辿った道を30年後ご主人と行かれたそうですが、紫陽花の、花と花の合間にお母様のお顔がにっこり微笑んでいたのでは? 『練習、ひとりぐらし』はしみじみとします。千年も万年も生きて、その生きているということをすっかり忘れてしまえれば一番なのですが‥。
作者にとって、渾身の作品になったのではないでしょうか。P230下段の2行目にある「結婚は鳥籠のようなものだ。外にいる鳥たちは中に入ろうとし、中にいる鳥たちは外へ出ようともがく」と、あからさまに開陳されています。もしかしたら人間って、籠の中にいても、籠の外にいても、自分が溺れてしまうような感覚に捉われてしまい、良くても、悪くても、目の前に一歩を進めてしまい、その結果のもたらす様々に関しては自己責任しかないのかも‥。その書き方も今回は非常に巧みです。加子も梨華も…行則も、自分が自分のままでは済ますことができず、変化していく自分に託すことしかできません。作品からは、主観的な世界の趣が展開されているのですけれど、よくよく考えると、客観的な人間描写の作品になっているでしょう。非情なまでに書かれています。
作者が、この作品を書くことにおいて〈乗って来た〉ように伺われます。楽しくなってきたのではないですか。どのような作品であっても、書くことが楽しいと思えて書くことは、その作者にとっては何よりの境地です。さて、今回の難題は練習場を確保することです。あてがわれた場所は、やや離れた場所にあり、草が生い茂ってる所でした。そのことを苦にしない、頼もしい面々であったのは幸いです。個々人の空気感が、多国籍的世界をつくり、その違いを違いとして受容するところはすごいなと思います。ホントなのだろうか。ホントなのでしょうね。国連でも、このような道筋で議論をしていけたら、争いのない世界になるでしょう。ジョニーさんは、この作品を書いていて、外人部隊も素人野球も、そこにある魂は一緒なんだと悟って書かれているように感じます。