2023年8月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:8月20日(日)
  • 例会出席者:9名

なんとなく日記

 年末の12月30日、12月31日と〈日記〉は書かれ、正月元旦、正月2日、正月3日で、なお追記として、正月3日に無視できないファンだったユーチューバーの結婚についてコメント。そのユーチューバーの結婚がよほどショックだったのでしょうか。2ヶ月一寸のお休みをとって、3月5日に再開。再開して、作者の大好きな太宰治の高校時代の下宿を訪ねます。観光コースの一つになっているのでしょう。作者は太宰が好きで、太宰のような作家を目指して、模索されたと伺っています。工藤さんの、太宰への思いの程を伺いたいものです。特定の短篇でも、作家論でも、行状をとおしてのあれこれでもよいのです。太宰を論じて、工藤さんの太宰を教えていただければ、新しい太宰を知ることになり幸いです。いい奴だったのか、わるい奴だったのか、規格外の作家・太宰。

星の降る夜

「星のきれいな夜」「パパは子どもたちとキャンプに」来ているのですが、「こまってこまってこまりぬいて」と、楽しいであろうキャンプの夜が、4年生のむすめの「さき」と、2年生のおとうとの「そら」と、おとうさんと、てんでんばらばらに困っています。おとうさんは子どもたちに、おかあさんは帰ってくると話していたのです。「わたしたち、ママに会えないからけんかしてるんだよ」とさきは言います。不思議です。ママが帰ってきました。「さき」も、「そら」も、「パパ」も、三人ともママを見たのです。でもそれは、おそらく、ぐっすり眠り込んでいる夜明け近く…ぐっすり眠り込んだ「さき」や「そら」や「パパ」が、その眠りの夢の中の一人、一人で各自が見た夢なのでは? でも、きっと、ママが「さき」や「そら」や「パパ」のもとへ星空から降りてきたのです。

紛争

 パパの「武」と、娘の「ひとみ」の土曜日の、相乗り自転車で公園に行って遊び、帰ってくる、とても平和な時間の一コマが描かれています。なるほどなあ、平和なんだ、武とママは学生のころ平和運動で出会い結婚した、それでずっと平和なんだけれど……。異国の市街地が砲撃されたとのスマホニュース、中国「茶屋」、「ロシア」料理店、ロシア料理の「ボルシチ」、妻の一言「世界中で大勢犠牲者を出すのよ」。短い作品なのに、とても平和で父と娘の土曜日の公園なのに、パンチパーマのいかにもといった感じの男に煽られたりするのですけれど、とりあえず、わが家は無事です。でもパパとママの大声でのやり取りを、娘の「ひとみ」は ひ と み をパッチリあけて開けて見ているのです。戦争と平和、トルストイの小説は愛に溢れていてすばらしいのですけれど。

天敵

 二項に分けて書かれています。『弱肉強食』と『支配者は破壊者』です。子供時代を恵まれた自然の中で育ち、青年、成人と、精一杯頑張って得た「今」を宝物なのだと思う作者が、昔を懐かしみ今を心配する随筆なのかなと、味わい深く読みました。冒頭の「中高生の孫娘たちが…」と書かれていることに感動しました。これと似た表現を作者はしたことがあります。そのときの表現は、「中高生の娘が…」のようだったのではないでしょうか。娘がと表現し、今、孫娘がと表現できることは、なによりの幸せです。人間は、自然と離れては生きていけません。それゆえ大切にしなければならないと思います。相撲をとったりチャンバラごっこ、泳いだり、サザエやアワビを獲ったりの記憶は懐かしいです。千年も万年も続いてほしいし、そうなるように皆が心得ねば……。

水たまり

 不思議な世界です。光があり、雷の音が響き、雨雲に覆われ、しつこい雨が降りつづけ止まない、のです。膨大な降雨量は、町の何処かに貯め込まれているのですが、なぜため込むのかわからず、だけれども、それを管理し穴を掘る重機もあれば、作業員もいて、気付いたらここにいて「私」も穴掘りの仕事にありつきます。赤いレインコートを着た姉、姉がかかわってきます。その姉に澤田は、「その腹は……」と聞きます。レインコートから現れた銀色のタイムカプセル。私はカプセルを開けることを恐れます。開けたら現実が書き換えられるかもしれない。結局、銀の球を水たまりに沈めます。(私が殺した父の骨の入る銀の玉)「あんた逃げたね」と姉が言います。いずれにしても、雨は降り止みません。あちらこちらにある穴は、私が子供の頃から、掘られては掘っているのです。

山岡鉄舟

 幕末において、幕府方は対面を保っての負けなら武士の面目が立つと腹を決め、その交渉役に山岡鉄舟を立てます。交渉の相手方は、家康が晩年を過ごした駿府城まで出張って来た薩摩の西郷隆盛です。明治維新において快男児多しといえど、西郷と山岡の肝のすわったところは、西の大関と東の大関であることに異論はないでしょう。刀は人を斬るものではないと弁えているのは、山岡にしても西郷にしても同じです。はてさて、西郷が、徳川慶喜の恭順の意を了とするかどうかに、江戸の100万の町民の命が掛かっています。それと、会談次第では、180センチを超える巨体の両者の命の帰趨もどうなるものでもありません。江戸城の開城がなされたことは、日本にとって幸いでした。そうならなかったら、日本は西洋によって、分割され植民地になっていたでしょう……。