毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
作者の小説は記憶にあるものの、今回のような「論」を、しかも客観的に構成されたものを読むのは初めてで、このような作品も書かれるのだと感心しました。「一」「二」「三」「四」となっています。【「一」買い足せば三冊に】には、まずは一冊を、そして二冊を、あげくに三冊目も買ったということなのでしょう。ユーモアがある冒頭で、思わず和んでしまいます。友人で、精神病院でカウンセラーをやっていた方がいます。そこの患者で、毎日出かける奴がいて、何処に行くのかと調べたら、近くの精神病院に行き、そこで医師として勤務していたということでした。友人によると、だとしても何等問題はないのだそうです。お互いに助け合わないとうまくいかない、助け合うから、世間はうまくいくのだということでしょうか。人と人、人と社会、助け合いましょう。
あらためて「神楽木法性」とは何者なのだろうかと、考えてみました。とても愚直なところから問いを立ててみたいと思います。「神楽木法性」という名称の中には、「神」と「法」という文字があります。神は神のほかにないでしょう。法はどうかといいますと、「仏法」の法のことではないかと思われます。神の言葉を伝え、仏の教えを述べる……それが神楽木法性です。日本の国の形が整ったのは、天皇が仏教を入れたことによって、盤石となり、以来、揺るぎない国体となったのです。なんとなく保守的な感じがして憚られるのですが、他国にはない融通性みたいなものが窺え、それほどわるいものでもないでしょう。だとすると、神楽木法性は門番みたいなもので、子供達の道標を示すために励んでいるのかもしれないと、思わず声援を送ります。
「忌中札のお正月」。それはいろいろなことがあった正月であり、三学期の始まりでした。そうして水木洋子をとりあげ、当時のヒーローであったボクサーの大場政夫をとりあげ、1973年当時のことを、当時の目をとおして一つ一つ回想していく作品です。父方の祖母の死、知らされることなく転居した水木洋子、チャンピョンである大場政夫の死、また、好敵手であったチャチャイの死。末尾にての時代は現在、キンカンの実を啄んでいると見た85歳になる母親は、「可愛いわね、あのメジロよくキンカンを…」と言うのですが、目白が啄んでいたのは「死んだ雀」なのでした。なにはともあれ、優しい母親ですね。この作品にて、どうしても目を離せなかったのは「水木洋子」です。彼女は、樋口一葉『たけくらべ』の、吉原に売られる「みどり」のようだと思いました。
この作品の核心ともいえる、燃やせば燃やすほど核燃料は増殖するという、夢のような、現実にはあり得ないような「存在する物質の増殖」というものの検証が、まずは国会答弁という場で展開されています。とはいえ、それは端緒についたという段階で、情報がすべて開示されないかぎり、その究明の何たるかはわからないでしょう。なんらかの、意図する物質の質量が増えるということを、私自身は信じていませんから、さて、作者はどのように展開させるのか大きな関心を持って、次号に期待します。ビッグバーンが起こって宇宙はできたと物理の時間に教わりました。増殖炉って、そのビッグバーンのようなものではないのか。そんなことができるのか……。ビッグバーンほどではない、小さな爆発があったりするのか。いずれにして期待は膨らみます。
長編小説の書き手である作者の、新しいシリーズがスタートしました。「一、野球を始める?」という、不思議な一章の出だしとなっています。というのも、五木一平の「中学二年の終わりの春休み、一平は中学校生活最後のバッター・ボックスに立った」という一文が、この作品の幕開けとなっているのです。二十年前に故郷を後にして、なにやら家族関係も複雑らしいのですが、野球のことが絡んでの何かが、昔の、いわば外国にまで行ったことと何か関係があるらしいのですけれど、まずは、次号で、ということでしょう。それにしても日本は様変わりしています。子沢山の田舎だったものが、少子化と老人化、外国人労働者が多くなり、まさに浦島太郎といったところでしょう。一平の友達づくり、地域づくりのお手並みを、しばらくは楽しませていただきましょう。
こういう作品を、これまで作者は書いてこなかったのですけれど、それなのになかなかの作品になっていて、驚くとともに、妙に堪能させられました。詳しくはありませんが、どことなく、シュールリアリズム宣言のような趣に感じられました。〈ベッドの上でのこうもり傘と新聞紙との出会い〉みたいな……。このフレーズがブルトンのシュールリアリズム宣言だったかどうか、正確には記憶しておりません。『夏の終わり、大雨、仕事帰り、傘がない』の一文は、雨の、空から落ちてくる様を彷彿とさせ、フレーズの語なのですけれど、象形文字(象形文)風なものとして目に楽しみました。その後に、「もう一人、雨に降られた女がいたのだ……」が挿入されているのは、今の出会いを、今の向こうに他者化するための、今の私の方策なのか……。小品ながら秀作です。
とてもシュールな作品だと思いました。登場する人物は〈母〉と〈父〉と〈ぼく〉の親子なのですが、読み進めていくと、それが母であり父でありぼくであるというのはその通りなのですけれど、決して、父が父親になることはなく、母が母親になることもないのです。つまり、父と母とぼくは家族という「箱」に入ってはいるものの、家族ではなく、家族という他人なのです。家族ではないのだ、ということは説明するのにたいへん難しいです。それは母と父とぼくとの間で、親子でありながら互いに意思疎通ができないのと相似形をなしているでしょう。白い家はとても小さいのですが、それを見ているのは外側からで、家の中に入ったなら、部屋が膨らんでいくのか、ちょうど入りきってしまうのでしょう。「美しき天然」の音楽と回転木馬、子供に戻って乗ってみたいです。