2023年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:4月16日(日)
  • 例会出席者:9名

歯医者

 久しぶりですね。例会報告の紙面で再会の・再開のご挨拶をするのもなんですけれど、このように、いつもの工藤さん調の文章を目の当たりにすると、ヤァ、と声をかけたくなるものです。とりあえず、お元気そうで何よりです。工藤さんの顔を見ない間に、その間だけ、こちらは年を取ってしまいました。ということで…歯医者です。私の知識ですと、知覚過敏というのは歯を削るのではなく、歯に穴をあけて神経を抜いてしまうのではないかと思うのですが、いかがなのでしょうか。イヤー……、当方、歯の治療なんていうのは昔々の話で、今では歯の記憶すらすっかりなくなってしまっています。久しぶりに提出作品を見て、書き方というのか、作品の構成とか文章・文体とか、なにか細かいところにちゃんと目が行き届いていると感心しました。歯は大事にしましょう。

サーカスの絵

 不思議な作品です。サーカスとサーカスの絵。サーカスとサーカスの絵がどう違うのか、またはどのようにつながっているのか、具象の世界ではないということは一応わかります。そもそも、〈白い馬が、当たり前のように、中空にぽっかり空いた暗い穴から飛び出してきた〉こと自体、現実世界ではなく、絵の中には確かなものはなにもないのです。ここにいるのは「じいじとぼく」だけです。父さんも母さんもいません。あの大津波の日にいなくなったのです。そこで、「じいとぼく」は存在しているのかと問えば、存在しているのです。それがなぜなのかはわかりません。じいじがいて、ぼくがいて、父さんや母さんがいて、津波の日にみんないなくなったけれど、サーカスの絵にはあるのです。じいじもぼくも、そして母さんも父さんも、みんないます。

女房をパリに置き去り

 ご夫婦で旅行して、なぜか喧嘩してしまい、捨て台詞とともに奥様をパリに置いてきてしまったのかと、早合点して読んでいきましたら、あにはからんや。全日空の社員は、空席があった場合には席に無料で搭乗することができるという、ありがたい特典を利用しての旅行記です。さすが全日空と感心するところですが、条件があって、空席が埋まらないかぎりにおいての搭乗券というのは、かなり気を揉むところです。しかもご夫婦ですから。でも、そうした体験を熟年になった今でもできるなんて、外野席から見れば、さぞかし新婚時代に戻ったような体験を味わえたのではないかと思うのですが、どうなのでしょう。やっぱり一つだけ、女房を置き去りにというのは、理由はもっともなのですが、ご主人としては奥様に大きな借りを作ってしまったのではないでしょうか…。

白い指

 散文なのか、詩なのか、気になるところですが、そうした形式とは別のところで、この作品は書かれているのでしょう。コンビニの一コマが丹念に描かれているような外形をとっていますが、よくよく思考してみると不思議です。レジの女性は目の前にいる老人にたいして、絶えず笑みを浮かべています。老人はお金を、それはそれは大事なお金を出しては戻す行為を繰り返すのです。この、コンビニの女性の店員とおじさんとは、とても非対称的です。おじさんは貧しく、お金が命の綱です。店員の女性は笑顔を絶やさない観音様みたいな方です。つまり、市井の老人と観音様の出会いが、このレジの前での出来事なのです。そのようにとらえてみると、身も蓋もありません。とりあえず、ぼけ老人とやさしい女性店員として、この場面を喜ぶことができれば幸いなのでは……。 

緑の鳳翼 1

 とてもよい作品だと思いました。まずは読ませて感動させるのですけれど、その営みに沿って読んでいくと必然的でいて予期せぬ何事かを得ることになります。小説の醍醐味である作品構造が内包されているのです。ソラはソラ、イチはイチ、じいちゃんはじいちゃん、澤田は澤田、そうした登場人物が個人としてクッキリと描かれ、なおもです、その個的に書かれた個人は個人としてだけではなく、それぞれの個人にとっての掛け替えのない他者として、相互に繋がって表現されてもいるのです。また、自然の描写も巧みに考えられているでしょう。田畑の描写や、そこに芽を出し成長する大根やトウモロコシ、森や林、川や沼、すがすがしい朝日、一日の終わりを癒す夕焼け、教室。堪能させてくれる作品で、そこから新しい世界がひらく予感がします。

サラザールの一日

 サラザールの一日とは、この作品の視点人物である左翼の新聞記者である「私」が書いた、サラザールを称え、なおかつその記事を読んだ市民が指導者であるサラザールに拍手喝采をしている、という偽記事を当のサラザールが見て、サラザール自身が国民の支持を受けつつあると満足して死んだ、というその「一日」のことです。一日のことではなく、絶えず流し続けた偽情報のことです。微妙なのは、サラザールのことではなく、その腹心だったカエタ―ノです。それに、サラザールの偽の記事を毎日書いた左翼記者だという「私」なのですが、彼はほんとに左翼だったのか、かなり微妙です。もっとも、史実だそうですので、調べるとわかるのでしょう。このことがあったのは1968年だとのことです。この年はいろいろなことがありました。日本でも学生運動に火が付きました。

家族 (最終回)

 連載作品『家族』が、今回で最終回となりました。作者にはお疲れさまの感謝を述べるとともに、気がつかないまま、ポンと現在のわが国が置かれてしまった、重大な問題を真正面から提示してくれたことには頭が下がります。日本が豊かだった頃から、この作品は始まっています。そのころは、これからの難題はすべて、その住宅地の資産価値の上昇でもって解決されるだろうとの楽観論が支配的でした。それが崩れたのは呆気ないものでした。土地家屋の評価が下がりだすと、すべてのものが逆回転します。客観的事柄に、肉体的な認知症やボケ症状が加わり、後戻りのような回転が始まります。兄弟間での協力なしには乗り切れません。最後の最後、東郷湖のほとりに入居できたのは幸いでした。湖の向こうから差す美しい夕焼けを眺めながらの情景はめでたし、めでたしです。