毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
さて、今回も楽しく読ませていただきました。合評会で、神楽木法性とは世捨て人のように書かれているけれど、法性の無手勝流の自論って、煩悩の塊りなのではないかという意見がだされました。そのように括ってしまうと、神楽木法性の神楽木法性らしさがなくなってしまうなあ、と感じました。奇異な神楽木法性論を連ねるのではなく、リアルな法性論、もしくは日常を描いてみたら、より神楽木法性に近づけるのではないかと思います。不思議な人は、確かにいます。そういった感じの人を二人、見たことがあります。一人は池袋の地下道で。もう一人は蔵前通りで。ひとりは老人で、一人は青年でした。二人とも同じ哲学書を読んでいました。ヘーゲルの『大論理学』でした。もしかしたら弁証法って、仏のことわりと相性がよいのかなと、その彼らに心を寄せてみました。
徳川家康の初陣のときの惨憺たる負け戦のときのあわてぶりを彷彿とさせる随筆でした。この作品の滑稽さが、その家康と重なって、とてもユーモラスに感じました。もちろん、作者は一生懸命だったのですよね。武田信玄とたたかい、戦も、見方も、ホッポリ投げて、うんこを漏らして城に帰り、その自分の姿を絵に描かせた。その家康を彷彿と思い浮かべました。自分のみっともなさを書くということは、実際は案外難しいものです。それをものの見事に筆に現わしてしまうのですから、さすがです。こうした才能は「小説」のもので、なるほど、小説も書けるのだと感心いたしたしだいです。一度、文学市場の面々で梅琴さんのご自宅に伺った折りに、酔った作者の傍らにつかず離れず、それとなく控えていた奥様をみて、梅琴さんの、まあ、うらやましく思い出します。
なかなか難しい詩です。蟋蟀、袋、落とし穴、犯人、十字架、武器、軍隊、氷の中、山羊の角が吹くよりも温かい、咲いた花の名、腕の皮膚、紙の上に乗せられた血の色、勇気の中に埋められた武器の名…月の色を白く凍らせる←→壜の中の液体…陽炎、土偶のような体、新聞紙の中の情報、破いた服の中に/爆弾を詰め込んだ時代が終わり/津波のように音が去ると/過去よりも未来の方が前に来ている。…のですが、さて、と考え込んでしまいます。出された意見は、ウクライナ戦争のことを現わした「詩」だということで、皆さん、納得はするのですが……。今程、世界がギクシャクした時代はなかったでしょう。ナンバーワンのアメリカが衰退し、それを追い抜こうとする中国、そしてインドと、ガラリ、ガラリと表紙の景色が変わろうとする現在の、ひとコマなのかも。
「結婚して二年目に入ったころ、女房から子供ができたようだと小さな声で告げられる」との、作品への入り方をして、とても長いスパンの《妻と夫》のあれこれを描いた作品です。あれやこれやなのですが、夫婦でなにが大事なのかといえば、それは決まりきったことで、子供のことです。子供が大きくなり結婚すると、自ずと赤ちゃんは生まれ、子供より可愛いお孫さんとのご対面となるのですから、ありがたいものです。おまけの【信望 地に堕ちる】は、前半の随筆をついつい書き過ぎたと思われてしまったのでしょうか、なんとなく作者の失敗談みたいに挿入されたのではないか思います。でも、そんなことはなくて、前半の部分はなにやら小説風な趣に包まれ、良きご夫婦の宝物はというと子供達であり孫達であるとの、親達の持つ普遍的な喜びでしょう。幸いです。
短い作品なのですけれど、書きどころのいっぱい詰まった小説になっています。品川港に停泊させてあるクルーザーのレストラン。そこで偶然に会ったコンビニのタイ人の店員は国に帰るのだそうです。そしてドカンと控えているのが、文京区の豪邸に住む祖母の90歳の誕生会。個々のパーツが響きあってのあれやこれやです。そもそもクルーザーを登場させたのも、単におしゃれのためだけではないでしょう。揺れるレストランなのです。つまり沈んでしまうことだってあるのです。そのことを感じている亜子であります。クルーザーのレストランが「冒険」を象徴しているとすれば、文京区の祖母の豪邸は不沈空母のようなものでしょう。亜子が望むのは、文彦との二人乗りのクルーザーなのですけれど、しがらみを文彦がちゃんと理解できるかどうか、作者の意図は? です。
さて、どのようなシリーズの作品になるのか、楽しみです。登場人物も特異です。視点人物の僕こと田井中。甲本さん。甲本さんがらみで薮田さん。大学入学時のころ親友だったのだが…、稲本恭介。「田井中さんって、こそこそトイレで泣いていそうだよね」と、折り畳んでは開いての、あっちこっちの僕が「日本太郎」と出会ったのが25歳の時。それで、今の…今の僕は34歳らしいのだけれど、25歳でも、28歳でも、僕はなにも変わらないのだけれど、なんとなく変わる予感もします。田井中は甲本さんが好きなのかもしれません。きっと、甲本さんも田井中を好きなのでしょう。皆が皆そうなのですが、相手と気持ちを通じ合わせることなく、それでいて形はどうあれ交際して、相対的関係であっても、ハーピーエンドというものはあるのかもしれません。