2022年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月18日(日)
  • 例会出席者:9名

読書雑記 52

 危機感に迫られての《読書雑記》なのではないかと、思われました。『……わたしの言うことを聞くのではなく、自分で見つけるので。自分で見つけた人は強いんですよ、その人自身が発信できるくらいの深い理解がそこには生まれている』、との上西充子氏の言説は強固です。自分で見つけるのが民主主義の基本なのに、まわりで自分の意見を述べる方は、とんと、いなくなってしまっています。なぜそうなのかと考えると、なんとなくですが、自分が火の粉を被りたくないの一事なのではないかと思われます。『何が記者を殺すのか』(集英社新書)。『朝日新聞政治部』(講談社)。『言葉を手がかりに』(集英社)。と三冊を紹介していただきました。社会的メッセージにしても、文学的営為も、その根っこのところでは同じなのではないかと考えています。さて……、です。

二郎のしあわせ

 どういう成り行きか具体的には書かれてなくわかりませんけれど、良美と大屋次郎は結婚をします。その二郎が「変異」したのです。何に、どうして変異したのかはわかりません。伯父もそうだけれど、次郎も免疫学を学んでいます。けれどどうしたわけか、次郎は免疫学を自己流に理解してしまったのでしょう。免疫的には避けなければならないことを、その時ばかりは免疫学が役に立つということによって、免疫学の効用が役に立つことが立証されると受け取るのか、人にとってはマイナスに作用する振る舞いを延々と続けるのです。親戚の高齢者を死に向かわせてしまいます。ついに、沢山いた親戚の高齢者、子供たちも寄り付かなくなってしまいます。良美と、良美の弟と、二郎だけになってしまうのです。さて、良美が二郎となぜ結婚したのか、とても疑問です。

わたしのおねえちゃん

 いつも一緒に仲良しだった姉と、妹のさえちゃんとの間での、微妙な顛末が描かれています。さえちゃんは4月から五年生になります。おねえちゃんは特別支援中学校の二年生になります。5月になって、その微妙な空気が形になって現れて来るのです。なぜそうなのかはさえちゃん自身にもわかりません。いろんなことがあって、いつもお姉ちゃんと一緒という訳にはいかなくなってしまったのです。そのことを、どうしてそうなってしまったのか、わかりません。お姉ちゃんには、きっとわかっていて、町に行って妹へのプレゼントのスノードームを買ってくるのですけれど、……お姉ちゃんも、さえちゃんも、涙を流して泣いてしまいます。女の子にとっての小学五年生、中学二年生は、それぞれに特異な節目なのではないかと思われ、姉妹は首尾よく乗り越えたのです。

ぼくたちの奔走

 ぼくにとっての中学三年生の「ぼく」を、描いています。剣道の達人で、腕の良い木工職人で、請われてふるさとの広島の用務員さんになった、ぼくのおじいちゃんの顛末から導入されています。なんとなく、このパートを読んで、作者も木工職人たるおじいちゃんの血を引き継いでいるのかな、と感じました。素材というか、出会った友達をいつまでも友達として心の内にだいじにしているところが、相似形をしていますから。それにしても、受験勉強のさなかにグラビアヌード写真を友達と共有していた、というのはびっくりです。『三太郎の日記』にしても、唯物論か唯心論かの問い掛けを自分にしている、というのも、東京ならではのことなのかもしれません。鳩が集団の群れに釣られて戻ってこないのは、それを見ている身にとっては口惜しいものですね。

招待状

 視点人物の「洋」と母と祖母と、そして利根川を渡った父と、学習塾講師の「息吹」と、受講生仲間の「雅哉」が登場する作品です。主旋律に添った展開もおもしろいのですけれど、なぜか、利根川のつくりだす風景に魅せられてしまいます。利根川流域の田畑は、砂まじりです。激しい雨が前触れもなく降ったりします。そうしたとき、庭は、もうもうと、三十センチくらいの土ぼこりが立つのです。あっけにとられて見ていますと、やがて土ぼこりはおさまり、現れるのは、この作品にあるような激流となった雨水の流れなのです。近江蒼一朗と、背中に背負わられた洋。時空からはぎ取られたその二人の存在は永遠なのです。その光景を父は深く記憶しており、二歳の息子の洋も記憶しているのです。北関東の風景に包摂された作品で、とても感動しました。

北上川の流れに

 小説と新聞投稿欄のことが比較して書かれた作品です。なるほどと思いながら読みました。あらためて気づいたことがあります。作者はうそをつくことができないということです。小説のうまい方は、往々にして嘘をつくことに躊躇いがありません。どうも、このように述べてしまうと、今度は、小説のうまい人の弁護もしなくてはいけなくしまいますから、そこはそこ、聞き逃してください。カフカの『掟』は、門番に「今は入れてやることができない」と言われて、死ぬまで門前で息絶えてしまいます。小説と新聞投稿欄作品は、比較するまでもなく両方とも創作作品であることは確かです。「さくさくの会員はみんな小説がうまい」と書き出されると、なにしろみんなですからね、あなたも、わたしも、皆さん心の汗をかきながら作品を頑張っているということで、万々歳です。

イリュージョニスト

 なんと理解したらよいのかわからない作品です。彼が出てきて、私があれこれと動くのですから、イリュージョニストの彼と、私のコラボだと理解するとよいのかもしれません。それにしても考えても考えても、その考えの向こうに逃げてしまう構えの小説です。ふっと、素粒子論という言葉が浮かびました。〈素粒子のもつれ〉なんて言ったらカッコよいですよね。同時に存在もすれば、彼だけの存在、私は消えて、けれど彼も消えて、そうして私が地下へ地下へと降りてゆく。この私と彼との関係はイルカの関係、「居るか・居ないか」(存在と無)のしゃれなのではないかと邪推しました。空間と時間の現し方はとてもシュールで面白いです。もっとも、面白いといっても、理解できなくて面白いのです。すごく難しい世界を端的に描写しているゆえの難解さのある作品です。