2022年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月16日(日)
  • 例会出席者:7名

家族 4

 母親の入居する施設の案は出揃ってはいるのですが、その決定に関してはなにも決まらないままの凪状態での『家族4』の一コマです。鳥取県の倉吉近辺にある介護付き老人ホームも、石川県の輪島にある介護付き老人ホームも嫌だというお母さん、そうしたお母さんを持て余しているような、疲れたような倦怠感を持ちつつ、作品的一休みの章なのではないかと思いました。どんなに便利なところよりも「家がよい」というのは至極もっともです。いくぶん料金が高かろうと、施設に入居してもらう方が、息子夫婦にしたら安堵です。それにしても、安くはない入居料+月額負担金25万円+その他医療費等々のことを思い合わせると、さて、といった塩梅です。でも、新聞等の広告で見ると、そのくらいはかかるようで、なにか、世の中、間違っているような気がします。といったところで、時間は進みます。今回の作品では、いつもは感じることのない〈時間〉を感じました。

童話「私の絵本」より

 今回は、童話が二点です。最初の〈一つ目のおはなし じいじの木〉は、とてもやわらかい感じで、ことばと存在とが連関してある世界を描いているのかなと、発想のやわらかさが心地よいです。〈「じいじの木」は、シイの木なんだ〉の「じい」と「しい」の言葉の連関は、まあるいお庭の真ん中にあってと、寄りどころです。じいじ、ばあば、ママ。「じいじの木」は秋にはたくさんの実をならせ、その実はいろんなものに変身します。〈二つ目のおはなし ヒロくんのうきわ〉は、とても微妙なおはなしです。いろんな意味合いがあるでしょう。でも「うきわ」を持ってきたのだし、いろんなことがあってもがんばれるのかもしれません。一日、一日が転がり、ママもヒロくんも、男のひとも、いきていくのです。お日さまは、雨のふる雲の上では、あたたかい光をあびせています。

神楽木法性伝

 変わった作品で、ひねった作風で、おもしろいです。なんとなくですが、論語の「子宣く」の形式なのかと連想しています。ただ論語は尊敬されている「先生」が宣ったのですが、「神楽木法性伝」では、僧職を離れたただの人の言葉です。何にも寄らないところでの「言葉」ということがミソで、神楽木法性を真に神楽木法性にしているでしょう。法性が何を言ったかも大事ですけれど、その言うところの法性の「存在」を考えてみると、とても興味深です。もっとも、考えてみてもわからないのですが、「空」の姿があるような、ないような……。よって、このシリーズを完成させると、画期的な作品になるのではないでしょうか。偉い人の言葉ではなく、言ってはまずいのですが、乞食坊主が何を宣うか、は革命的です。だんだんと、神楽木法性の手応えを感じています。  

ビールも妊活も生がいい

 タイトルが微妙だなという意見がありました。確かにタイトルにはお茶目な作者の遊びみたいなものが窺え、導入部においてもそうなのですけれど、さて本文ともなると、いたって真面目一本に絞られてしまいます。それが父娘というものでしょう。いつもの作品に比べて、客観的な描写でまとめています。その客観のすぐ後ろに作者は居て、文面の理路整然とした描写とともに、作者というか父親というか、なんだか温かな思いも伝わってきました。意見として、一つ、一つの段落が長いという感想もありました。今回に限ってはそうかなと思います。まあ、堅牢に自己防御しないと、どこで笑み満面になってしまうかもしれませんし、うれし涙の披露となってしまうやもしれませんから、まずは、目出度し目出度しです。バンザイですね。おめでとうございます。

約束

 絵に描いたような光景が浮かんできます。マント、箱橇(はこぞり)、東北の冬景色、中田病院の佇まい、それは昭和の中頃の香りなのでしょうか、懐かしく思い出され共感しました。修一の小学校一年生、三年生、中学一年生。ずっと熱を出す体質は変わらず、いろいろなことが40度の熱の中でのことのようにあいまいになっての記憶です。小学一年生のときの女の子の言った「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」は、「大人になったら、また会おうね」だと明かされます。女の子は佐藤直美ちゃんという名前だということはわかりますが、それとともに「急性骨髄性白血病」だということも知らされます。40度という高熱の中で、赤い着物の女の子との様々な出会いは、まぼろしのように、現実とも幻想ともつかず、果たして、大人になったらまた会えるのかどうか?

彼が生きていたとき

 糸口の見えない作品というものは、とても刺激的です。何に刺激されているのかわからないのに、妙に何かがあるように思わされるのです。でも、「成人」単体について考えると付き合いたくない人間です。なのですが、成人が見ているだろう「世界」についての物思いはわかるような気がします。「わかる」と言ってもわからないのであって、「ような気がする」というだけです。こちらから成人がわからないように、成人からはまわりの人がわからないのであって、どちらが特別ということもないのでしょう。まあ、多数決ですと、直ぐに決着はついてしまうのですけれど、さて、さて、さて……です。救いは丹野君がいたことでしょう。さすがは級長です。友情が結実したとき、成人はいなくなったのではないかと推察します。自らで向こう側にいってしまったのです。

本のこと

 タイトルが面白いです。なにしろ「本のこと」なのですから。単純なタイトルですから、本を読まない人にも・本を読む人にも、面白いでしょう。なぜって、他の人はどう読んだのだろうかと気になりますし、ほんと、参考になります。それにしても、登場している作家名や作品名を見ると、片寄ることなくいろんな小説を読まれてきたのですね。自ずとそこに文学的素養が育まれたのでしょう。いろんな小説を読むと、鑑識眼みたいものも自然と育まれるでしょう。私が初めて読んだのは、小学5年のときに読んだ『トムソーヤーの冒険』でした。次に読んだのは中一のとき、石原慎太郎の『完全なる遊戯』(?)を読みました。習慣にはなりませんでしたけれど、読書の楽しみみたいな感覚は、残っています。まるで他人のあれこれが、自分の中に入る、感覚は特別なものです。