毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
たかぶる気持をおさえて、平和な時代が来て世界から戦争がなくなったと思う21世紀の戦争を、やるせなく綴った詩でしょう。平和を求めることをせず、戦争を渇望する人間がいること自体が不思議でなりません。そもそも戦争は〈勝ち負け〉で、勝った方が負けた方を支配するということでしょうけれど、どこの国でも相手を支配することを是とする国はないのです。平等と平和こそ求められる倫理であるでしょう。ウクライナでの戦争の奇妙なところは、停戦協議を求める声がどこからも上がらないことです。民主主義を歌うマスコミでさえも、どこそこを占領した、どこそこを占領されたの報道しかしない7ヶ月でした。『揺るぎ無い平和』とは何でしょうか。世界の指導者を自認する方たちが求めるべきは戦争などでなく、万民が食卓を囲む楽しい夕餉の光景なのでは……。
長編小説『フランス外人部隊』が佳境を迎えています。水原峰子と坂出誠が結婚したのは1944年、峰子が17歳、誠が19歳の時でした。1944年から1945年にわたる時間の空白が、水原家や坂出家に過重な悲劇を生みだしたのです。そうして昭和から平成へ、時代は変わります。昭和から新しい時代である「平成」になったとき、自分は新しい平成に生きているけれど、過去となった「昭和」に沢山の忘れ物をしてきた身には、なぜか平成に馴染めないものがあります。峰子にとっては誠と……。誠にとっては峰子と……。生きて会える日のために生きて来たのです。「チョコレート色の電車」は遠い、遠い夢です。「お菓子の すきな パリ娘 二人そろえばいそいそと、かどの菓子屋へ ボンジュール」と、その夢が、おそらく実現する日は近いのです。
永井荷風の幼年時代、青年時代と、その放蕩ぶりをきわめて、いよいよアメリカやフランスでの銀行勤務を経ることによって、この作家の作家である本質に触れ性的な神髄が書かれたのではないかと思います。単に色好みな男である、と捉えたのでは、その作家性にまでは届きません。性に耽溺することによって、その耽溺の中にこそ安心感を得ることができる、それ以外ではただ虚しいとしか感じられない、どうも永井荷風という作家はそういう男なのではないかと思われるのです。わがままな生活といえば、そのとおり、わがままな自己中の男です。きわめて文学的な世界でしょう。作者が指摘するように、永井荷風はアメリカとフランスを比べると、断然にフランス贔屓です。それは阿るような色香によります。駒本氏の「永井荷風」を5回読んで、荷風の冷たさも知りました。
漫才を読んでいるような感じがしました。たぶん、今回は、主人公の二人が登場してのやり取りのアレコレだったので、そのように思えたのでしょう。というか、今回の「さび抜きとストロー4」で、これは「さび抜き」が宮原さんで、ストローが視点人物(桜沢さん)なのだと、やっと、わかりました。けっこう鈍感なのです。そして、そういうことがわかると、主人公の二人に限らず、登場人物のだれもがイッパイ、イッパイのところで健気に生きているのだということが伝わってきました。ただ気になるのは、二人とも優等生過ぎないかという点です。この作品が本屋さんに並んだ時、どんな読者が手に取るのかと考えると、どうだろうかと考えてしまいます。微妙なところです。桜沢さんや宮原さんに共感を持つのか、それとも自分に対してコンプレックスを持ってしまうのか。
かなり過激な作品ですね。「病身の中に沈む私が死に、…」と始まっています。なんとなく落語にある、自分の頭の中にできた池に溺れて死んでしまう、というお話と共通するものがあるように感じました。考えると奥深いでしょう。ここまで過激に考えることはありませんけれど、このようなことは生きている限り考えるものです。タイトルが「秒針」ですから、長針と短針も考えてみると、やや普通の世界も見えてきます。また、言葉で考えると「秒針=病身」です。タイトルの「秒針」が、冒頭の「病身の中に沈む私が死に」に変じての作品になっているのでは? マイナスのイメージの言葉で満たされている作品ですが、マイナスの言葉が磁石のように希求するのは、マイナスとは反対である希望の言葉です。北と南があり、絶望と希望、…夢や。楽しい作品を待っています。
作品の背景となっている時代は、文学市場の会員の皆さんにとっても、とてもノスタルジックな時代です。ニュー新橋ビル二階にある『純喫茶ホルン』、カウンター近辺に待機している何人ものウエイトレス、白のブラウスに黒のタイトスカートと描写されると、当時の光景がまざまざと浮かんできます。ウエイトレスには美人が多かったです。ガスや石油の業界紙の新入社員である〈修一〉は、先輩達に交じり、今日の予定などについて毎日この喫茶店で打ち合わせをして、出陣していくのでしょう。先輩たちは、シベリア帰りだったり、特攻隊の生き残りだったり、あの有名な陸軍中野学校の特務機関員だったり、右翼もいれば、共産党員もいる、という塩梅です。そうした雑多な人達が、敗戦後の日本を復興したのです。時代の描写、人間の描写が、とても巧みな作品です。
さて、《波戸崎ミュージアム》はどこにあるのでしょうか。伊豆の下田にあるのでしょうか。ネットで《波戸崎》と検索すると、佐賀県が出てきます。それで、なんとなく合点がいきました。すべては、作者の心の中にある思い出なのではないかと。作者の思い出ですから、書かれていることは作者の体験です。体験ですけれど小説でもあり、創作なのです。自己の記憶を、何度も何度も反復して思い出して、より確かな記憶にして作り上げたのが、この『波戸崎ミュージアム』なのではないでしょうか。だから、お客さんは作者一人だけです。もちろん、作者に随伴する誰かがいても、それは自由でしょう。崖っぷちにある回廊を巡るように作られたミュージアムって、高所恐怖症の私にとっては、とてもこわいです。でも、その記憶に目をつむってはたどりつけないのです。
不思議な作品です。登場するのは理子と夏美と聖と、それから聖に腕を折られた子供です。ここで最も不可解なのは、その、「子供の骨を折った」という事です。聖はアルコール依存症だったけれど、その聖が、理子をアルコール依存症から救ったのです。だとすると、聖をアルコール依存症から救い出したのは、夏美なのか、それとも聖が腕を折ってしまったという子供なのか、混沌としています。訪ねて来たら夏美は家の入口の前にある五段の階段の三段目に座っていて、理子もそこに居て、二人とも、月の光に包まれているのですが、どちらが夏美で、どちらが理子なのか、どちらがどちらなのかわからなくなり、夏美も理子も同一人物の一人なのかもしれず、そもそも夏美にもアルコール依存症的な雰囲気があったりします。と…不思議な作品です。