毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
2021文芸時評に鴻巣友季子さんが、直木賞作家の桜庭一樹さんの書いた『少女を埋める』について書評を掲載したのだけれど、それが、どうも誤読なのではないかと、ちょっと騒ぎになったと書かれているのです。女性作家というものに、それまで会ったことはなく、その後もありません。ところが、ある時、桜庭一樹さんにお会いする機会に恵まれました。三十年くらい前のことになります。『文学市場』の会員の中村豊さんが、『千代田文学賞』の佳作を受賞されたのです。会員が文学賞を受賞するのは初めてのことで、喜んで授賞式に参列させていただきました。その時の選者の一人が桜庭一樹さんでした。文学賞はたくさんあります。たいていの文学賞は公正に選ばれているものと承知しています。ところが、下読みの方も、選者の方も、それぞれ好みというものがありますから、特定の誰かがみたら公正だとは見えない場合も、往々にしてあるのではないかと思われます。
いつも楽しく読ませていただいています。どの作品も、当方が体験しないようなお話で、勉強になります。今回はご夫婦と、夫婦の間に育った子供の巣立ちみたいなものが描写されています。なお、構成が変わっていて、面白く感じました。タイトルは《ご挨拶の後で》で、導入の一段目〈息子の結婚披露宴、両家を代表して〉のところで、まずは「含み」みたいなものが生じるのです。そこで時代劇の話題となり、あなたが江戸時代に戻ったりしたら〈ちょんまげ〉が結えない→「あなたは頭をあまり下げない方がいいわよ」となるのです。奥様は、皆さんに、ご主人のよいところだけを見てもらいたいのですね。一種の『過保護からくる愛情』のように思われます。子供が巣立っていってしまうと、こうした愛情って照れ隠しにもなってよいものなのではないかと推測します。なんとなくですが、作者は、自分の新しい書き方みたいなものを模索しているように感じます。
カフカの作品に『掟』という超有名な作品があります。翻訳された作品で、原稿用紙4枚くらいの、どちらかというとチンプンカンプンな小説です。その作品にちょっと似ているなと感じました。ホラーっぽくて、一貫した筋というものがなく、山梨の実家で術後の静養をしている社長の見舞いをして、帰ってくるという作品です。津田が視点人物。津田の部下の若い社員が大西と黄田。帰りの車中で、社長の激ヤセ振りが話され、社長の奥さんの家出のことに転じ、いつの間にか黄田の高校生の時の弁当の奇妙な習慣が語られます。もちろん、顛末の詳細にはいたりません。新宿に着き、そこでもというか、なにやら時制が混乱したように、彼がビルから飛び降りたり、あの男もしかり、津田は対向車線を走って来たトラックにハンドルを切って突っ込むのですが、気がつくと左のガードレールです。展開の整合性はあるけれど、部分部分で繋がったおどろおどろしい世界です。
遠い子供の頃の時間というものは不思議です。その頃のこと、つまり昔のことを書いていて、時代のことは知っているけれど、作者の育った故郷の風情や、あれやこれやは知らなくても、その昔という空気のことはなぜか共通したものとしてよくわかり、その体験したことのない昔を体験したような気分になるのです。それは『故郷』の歌を合唱するときのような切ない気持ちになります。もっとも、雪滑りや栗拾いはわかるのですが、四畳半のピアノは壮観すぎて、ピアノが坐(おわす)四畳半で、お姉さんと作者はどのように生活していたのか、そうした描写があるとなるほどと、こちらも納得するのですが……。最近、私も昔のことをエッセーで書いたところ、発見したのです。 昔のことって、書いていてとても楽しいのです。ランドセルを背負っていたり、ゴム飛びをしていたり、そうした一人一人が、ぼやけることなくクッキリと思い出されると、それだけで楽しい。
春先の高尾山登山ということで、とてもウキウキした感じになるのではないかと読み進めますと、なんと言いますか、みっちゃんがタイトル通りの言葉を「このロープ、何でこんなに細いの」、と言うのです。【なんであんなに細かったの】と、みっちゃんは言うのですが、崖道で横幅数十センチというと、確かに、たいていの人にとっては危険極まりないコースです。岩にロープが張ってあるのは、そのロープを掴み、それとともに体重をかけて渡ってくださいということでしょうに、それが細すぎるということは、用を足すロープでなくて、間に合わせに張ったのかもしません。誰が? ということになりますが、その向かう先がみっちゃんには思い浮かばず、梅花を見るための高尾登山なのに、梅よりも細いロープに腹の虫がおさまらないといった下山だったのではないでしょうか。高尾山に行って、午後1時前に帰ってしまうというのも、おそらく初めての体験なのでは…。
正直なところを言うと、よくわからない作品でした。この作品のように、Aという空間と、Bという空間を設定しての作品においては、Aでの視点、Bでの視点、その個々的な視点を整合性をもって書かなければならないのではないかと思います。AとBが交差していたり、両義的に書かれたりすると、ずいぶんと混乱してしまいます。そのAとBを現わすのが、川原顕佑と志方聖悟です。この二人に添えられて登場しているのが、予備校生の三尾真鈴と、予備校講師で現役の大学生である氷川優実です。描写で読ませる作品だと、このままでよいのですけれど、展開で読ませるとなると未達感が残ります。もっとも肝心なのは、川原と志方なのですが、かなり思い入れの強い作品なゆえ、まだまだ、書き切った感にまで至っていません。河原と志方の二人を立てて、ここまで描けたことは、作者にとっての大切な成果になったのではないかと思います。
タイトルが『ふたり』となっています。まずは、兄と弟のことなのかなと思いました。さもありなんです。ところが、読み進めていくと、個々人の意志による繋がりのことではなくて、「兄と弟」のことでもあれば、「父と私(兄)」のこともあり、「母と私」の情感あふれる描写の場合もあるのです。そこの部分はまるで順列組み合わせのような丁寧な描写がなされています。「ふたり」と描かれていて、その〈ふたり〉だということは、真言宗の「同行二人」のことを想起させられました。祖父のこと、父のこと、母のこと、そして弟のこと、のそれぞれが、つまり時間経過の上に確かな記憶として刻まれるのです。「同行二人」と書きましたが、最初に発想したのは、弁証法的な「ふたり」でした。そのようにとってしまうと、情感が削がれてしまうので訂正しました。年輪を重ねながら、立派な木材になるのを目撃するのは、祖父がいて、父がいて、母が、そして弟がいる場所です。