毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
おもしろいです。面白いけれど、なんだかしんみりする作品だと思いました。鳩山由紀夫が頭に登場、菅直人と続き、平田オリザの『下り坂をそろそろと下る』でもって、この先の日本のありようをうかがわせます。司馬遼太郎のような楽観的な希望が影をひそめた今、時代の風景を納得せしめるのは鶴見俊輔みたいなものなのか…鶴見の信奉者というべき耕治人の夫婦を浮かび上がらせて、時代の覚悟みたいなものをそれとなく綴ってみせた読書雑記です。ほんとうは、耕治人の作品を読んで、この読書雑記に接したらよいのでしょうが、ものぐさがそうさせません。新しい資本主義とは何か? と考えてみました。それを、「たくさん稼いで分配を増やす」と説明されたのでは、何の解決にもならないでしよう。なにもかもを新しくする以外にないでしょう。でも、その「新しくする」ということは、私たち日本人は一番苦手です。
第十五話『モールス暗号』、第十六話『萌芽』、第十七話『不特定』、第十八話『Q寺物語』、第十九話『詩人』、第二十話『廃墟ではなかった』、第二十一話『好きさ好きさ好きさ』の七話からなる「平成奇譚集のその3」です。善悪の逡巡もなく、ただがむしゃらに生きているのが私たちで、振り返ってみればそこにはいろいろなことがあったと知ることになるのでしよう。そうした創作寓話からなる七作です。第十五話の『モールス暗号』は、しょっぱなから特異です。モールスは暗号ではなく信号です。それを暗号としたのは息子の側からの複雑な気持で、信号を暗号化してわからなく伝える(?)工夫です。わからなく謎に暗じたけれど、わかってほしかったのです。それを息子の死後に理解した父親は、いかにせんともできません。第十九話の『詩人』の詩は、三十二行から成り立っています。一行削ると三十一行になり、和歌の三十一文字と数合わせの遊びになります…。
夥しい言葉が、言葉と言葉の間にあるはずの空間を狭め、ニアミスして他者化していきます。「ドグマの内部に、マグマの熱が」なんて、意味を越境して〈言葉仲間〉となるのです。そこで、今となっては随分昔のことになりますが、私には、タイトルの『下降していく指輪』に描写されていることに思い当たるものがあるのです。この作品には、指輪に象徴された叶わなかった〈結婚〉がどことなくあるでしょう。その結婚が宇宙のかなたに《下降》していくのです。作者が長い時間をかけて見つめることができるようになった、その己の掛け替えのない真実を、宴の一週間としてうたい上げたのが、今回の《下降していく指輪》なのではないかと受け止めています。こうした作品を書くことが出来たということは、作者にとって、よき出来事の前触れなのではないかと思われます。新しい、生まれ変わったところの作者として現れるのではないでしょうか。
いざ…第二次世界大戦という大きな戦争は終わったのだけれど、より混迷した戦争、誰が敵で誰が味方なのかわからない血みどろの戦いが幕をあけたのです。中国でいえば毛沢東と蒋介石の闘いがあるでしょう。それとは形相が異なる中国南方における戦力分布。またベトナムに残留するフランス軍。ベトナム軍というものがあったのかどうかわかりませんが、そうした政府軍的なものと、ホーチミンが指揮するベトコン勢力。少なからずアメリカ軍も上陸していたのでしょう。そうした中で悲劇が生まれます。誠は妻である峰子の兄の仁を撃ってしまったのです。仁は中国軍に捕まっていたところをベェト・ミンに助けられ……それを誠は撃ってしまったのです。悲劇を癒すためではありませんが、誠たちは十二月、アルジェリアへと駐屯地がかわります。映画などではお馴染みのところですけれど、外人部隊の外人部隊ならではの神髄が語られるのでは……。
いろいろなものが確定しないままに、静止した時間が過ぎていきます。そもそも「丘の斜面には羊たちが、寝そべっている。/彼らの羊毛は空に浮かぶ雲のように白く、」なのですが、そこに「男」が新宿からやって来て、この丘陵を眺めています。男もやがて、羊たちと同じく「彼」と表記されていくのですが、羊を「彼ら」と表記し、男を「彼」とみるのは誰なのか、作品はおしまいまで答えを出しません。円盤に一頭の羊が吸い込まれると、次の日には、新たな一頭の羊が群れの中に数えられるのですが、そこの計算に「決算」はないのです。果たして自分は「死んでしまったのではないか?」と思うのですが、あきらめることしか思い当たりません。アンテナの近くに羊の死体を発見します。いかにもその死体は「彼」なのではないかと思わされますが、すべてのものが素粒子のように分離された世界で、その死体が彼だとも、羊だとも、確定することはできません。
作家というものは、小説を書いて読者を楽しませ、作家自身の生き方でも読者を楽しませます。いろいろと楽しませてくれるのだなあと感心させられました。永井荷風が銀行員としてアメリカに行き、その後、念願のフランスに転勤、そこで作家になる決意をする、と簡略な知識は持っていましたが、今回のようなアメリカにての男女の機微に関しては大変興味を持ちました。作品の副題に「女性とお金」とありますが、女性には格別に惹かれてしまう何かがあったのではないかと、推察します。満たされない何かが在り、それを満たすための行為です。でも、いざ別れるとなると淡白だったようですから、尋常ではありません。お金は、お金持ちの息子ですから、頂戴と手を出せば必要な金子が掌に載るのでしょう。永井荷風の文学は、とても秀でたものです。普通は自らの作品を飾り付けたくなるものですけれど、一切の飾りを省き、ありのままに書かれます。
今回は『ゆうやけ橋のまりこさん』の前篇です。親子三人の家庭だったのに、母親の典子さんが癌でなくなり、高校生のいる家庭なので、父親の松井誠二は家政婦さんを頼みます。やがて七年が経ち、由恵さんは事情により家政婦を退職するのですが、その前に美佳子は由恵の手帳の中味を偶然にも見てしまったことがあるのです。という時系列ですけれど、冒頭でポンと、由恵さんらしき人物の行方不明者紹介のポスターを見たことから入ります。タイトルにある『…まりこさん』のまりこは、由恵さんの娘さんと同じです。おそらく由恵さんは記憶を失くして施設に保護されているのでしょう。ですので、後編では由恵さんに会い、娘さんであろうまりこさんともご対面となり、由恵さんの人生が語られるのではないでしょうか。とても楽しみです。文体というのでしょうか、言葉の運びがとてもゆっくりとしていて、読者の意味の理解を待つような文章です。