2022年1月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:1月16日(日)
  • 例会出席者:7名

映画日記 59

 2021年3月から6月にかけて観た映画、48本についてのコメントです。星が1個の作品はなく、2つの作品が1本あり、3つの作品が多数で33作品ありました。4つは12作品です。最上級の★印5つの作品は2つでした。コロナ禍で映画館はたいへんな状況にあるのではないかと感じております。映画ファンや業界の方達が多く集まる渋谷の映画館や、御茶ノ水にある有名な「岩波ホール」など、閉館となってしまいました。ただ、映画を制作しようという若者は多いとのこと。それは製作本数に現れています。なんと、歴代の記録を上回っているのだと伝え聞くところです。そうした若者の夢が実るとよいなと願うばかりです。ところで★印5つの『ノマドランド』は観てみたいです。車中泊のできる遊牧民みたいな生活って、アメリカの西部開拓の歴史に似ています。もしかすると幌馬車で見つけられなかったアメリカを見つけられるかもしれません。

小説・天女の章 ①

 なかなか難解な小説です。河合勇太郎が《「天女」に関心を持ち、神仙境の仙女西王母と九仙女に変身したことや、羽衣をまとって敦煌から日本に飛来したこと、羽衣を盗まれて妻となってもいずれ天に帰ること、室町期には世阿弥が近江猿楽の犬王(道阿弥)の「天女舞」を模倣したことなどにある》と、中国から日本への文化的な流れの道筋を述べたところから、難解な、この作品が幕を開けるのです。作者がいうところの「処女が仙女→天女→巫女→遊女となるというのがこのシリーズの展開」であるという、そこの「意味」がよく理解できませんでした。いろいろな出来事が複雑に絡まっていて、天女の薄衣ではありませんけれど、透かして見えるようでもあれば、尊い幻影のようでもあれば、恐れ多くて目も眩みます。視点人物の河合勇太郎の主観的な視点がもう少し入ると、夢物語の世界により浸れるのではないかと思いました。とにかく難しかったです。

(詩) 八月

   日差しの輝きは夏なのに/高原の風は秋模様
   ジィー ジィーと/カナ カナの高共鳴音
は巧みです。日差しは夏なのですが、風は秋と、微妙な皮膚感覚の季節をとらえます。それに続けてのジィージィーとカナカナはセミなのですけれど、聴覚に届く季節を、夏から晩夏の季節の移ろいの狭間にて表現しているのです。三連目では蝶やトンボの軽やかな風情。四連目では吾亦紅、桔梗、ミズヒキ草、ススキと、これも季節における順番の通りに登場させているでしょう。  次に続く二つの連は異質です。人類は気候変動という大問題に直面しております。そこにコロナウィルスの脅威にもさらされているのです。「あぁー/あぁー」との叫びが挿入されていますが、視点が微妙です。だめだよ、と言っているのでしょう。だとすると私達の歯がゆさの嘆きでしょう。

爺の裏返し

 おとぎ話の「浦島太郎」と、怪談話の「牡丹灯籠」がミックスされたお話なのではないかと思いました。浜辺で子供たちが爺に暴力を振るっていた。子供ですから諫めることになんら問題はなく、また、助けた爺が感謝するのも当然な成りゆきです。そこで貧相なあばら家につれていかれるのですが、入って見るときらびやかな装飾の空間に様変わりしてしまいます。おまけに数人の美女が侍っているではありませんか。甘やかな性の営み。それが何日も何日も続くのですが、ある日、爺と婆は彼に小箱を手渡します。浦島太郎なら小箱を開けると「時間」が煙りとなって立ち昇るのですが、小箱には写真と白い光を浴びたシャレコウベが入っているだけでした。はて、さて、爺と婆、そして美しい数人の美女はどこへいったのでしょう。浦島太郎のごとき「彼」は良い思いをしただけで、とりあえず罰をうけずに無事なのです。「彼」こそ謎の存在ですね。

月光童子

 月光童子とは月光菩薩のことなのでしょうか。もしかするとそうなのかもしれず、童子である場合と、表向きとして菩薩の場合とあるのかもしれません。薬師如来の脇侍である月光、日光なのだそうで、詳しくはわかりませんでした。月光菩薩の無名のころのことを月光童子としたのだと思って、進めていきます。12、3の年の頃に行き倒れていたところ、寺に拾われて助かったのですから幸いでした。その幸いを引き寄せるだけの生命力と俊敏な頭脳を備えていたようです。盗んでもいないものを盗んだと疑われ、寺を追放されてしまいますが、なぜか月光はいいわけをしません。おそらく、自分は盗んではいないけれど、自分ではないが誰か盗んだ者がいて、それはのっぴきならない事情があって盗んだのかもしれない。そうした事情があるなら、自分が盗みの罪を引き受けようとしたのでしょう。よいのか、わるいのか、わかりませんが、涙なしには聞けない話です。

家族 2

 合評会で、これが三十年後の日本の姿なのだと言われた時には、少なからずびっくりしました。でも、よくよく考えて見ると、これはリアルな現在なのではないかと思い直すしかないでしょう。しかも、日本の経済状況を考えると、とても2038年には、このような甘い状況でもなくなっているのではないかと思います。この三十年間、政府は経済の基本構造に対して有効な対策を立ててきませんでした。目先の状況に応急的な手当てをするだけで済ませてきたのです。合評会でも、株価と、金持ちがより金持ちになる政策しかしてこなかった、との意見が出されました。五十年前、私の田舎の畑は、坪二十万円していました。それが今では五千円でも売れません。この作品のように、母親の余生を子供の義務として見つめ、その後に控えている自分たちの行く末をどのように可能にできるのか、難問ばかりが続きます。この小説にて、何かをつかめるとありがたいのですけれど…。

樋口家の姉妹

 とても引き込まれて読んだ作品でした。樋口家の家族の誰かが、後日談として当時を振り返って書いたのではないかと思えるほど、筆の塩梅が整っています。母の「たき」は書かないだろうし、作家になった「なつ」も書かない、となると妹の「くに」あたりが当時を懐かしく思いだして書いたのではないか、と思えるような作品でした。子供相手の駄菓子屋のお金勘定はとても秀逸です。金に拘る作家として、いの一番に想起するのはドストエフスキーです。お金は不思議にも、切羽詰まった時の人間の本質が露になります。どうしてそのような感性にまつわることを樋口一葉が書くことができたかですが、お金持ちだったこともあり、貧乏だったこともある、裕福と貧乏の両方を体験しているがために、双方を見定めることができたのでしょう。それが幸いなのか不幸なのかはわかりません。作中の「みどり」は、まさに『たけくらべ』の「みどり」そのものです。