2021年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月19日(日)
  • 例会出席者:9名

それでもクラシック

 長い人生とはいえ、これまでに少なくとも15の趣味があった、というのですから、すごい行動力だと思います。思う存分に生きるということは、こうした趣味でのことでしょう。取り上げられたなかで、私も趣味だといえるのは麻雀くらいでしょうか。これは趣味ではなく商売だったので、するとなにもなく寂しいものです。まあ、散歩くらいのものです。ドボルザーク・ボヘミア・アメリカという取り合わせはドンピシャリで、ドボルザークはとても充実した人生を歩んだのだと推察します。オーストリア帝国時代のボヘミアにはいろんな人達がいて、自由があったと聞いています。ロマの人達にとっては、自由で、帝国ですから広い地域で興行することができます。その後、帝国が解体され、小さな国に分割されると、ロマの人達は旅興行に難儀はするし、差別されたのです。そのオーストリア帝国とアメリカの風土はどことなく似ていて、第二の故郷となったのでしょう。

特別な人

 どんな趣向で書かれたのか、前半を読んだところではわかりません。不思議な感じがところどころで、ふっ、となされています。全体的には「わたし」の視点ですけれど、「わたし」の生まれる前のことも書かれているのです。会話文と地の文の区別もなく、独特です。三密はダメヨのご時世で、その三蜜を極端に避ける表現と、それとは真反対に、極端に密な関係が書かれているのではないかと感じます。冒頭にて「じゆうげむ、じゅうげえむ」と切り開かれますけれど、かなり考えられての表記になっているのだと思われます。それが何かと言えば、父の世界です。「テレビを見ながら、父が…」というのは「わたし」の世界です。こうした表現が面白いのです。父と娘なのだから、ことさらに他者性のもとに表現すべきでないのに、父は父、わたしはわたし、と個的な趣になっています。そうした中で、母の、「だから高見家は面白いのよ」的な感性は読みどころでしょう。

鼻の穴で決まる

 言語から色々なことを思索して、面白いです。英語とフランス語とドイツ語の比較は、友達と学生の頃に交わした会話と重なって、今でも変わらないのだなと納得です。ヴェルレーヌの『秋の歌』を訳した上田敏の〈秋の日のヴィオロンのため息の〉は、まさに詩情の構成が成っていると思います。〈バイオリン〉と〈ヴィオロン〉、確かに「鼻の穴で決ま」っているでしょう。お孫さんが外国語で中国語を選択されたとのこと、米中対立と騒がしい昨今ですけれど、対立は対立ながら、ゆくゆくは同じ大国として並び立つものと直感しての選択だったのでしょう。翻って日本語は、どこか平板な感じがします。これは明治維新や、戦後の標準語教育のたまものなのではないかと思えてなりません。言語が共通語になる過程で、その国や地方の「なまり」は淘汰され、おしなべて標準語になったのでしょう。東北弁が懐かしくて上野駅に行ったとしても、今は叶わないことです。

逝かないで・君よ死を身に纏うなかれ

 自殺をあつかった作品なのですが、視点が特異です。一般的には自殺者の一人称が多いと思うのですけれど、ここでは三人称的に捉えています。その三人称は、やや、作者視点と言ってもよいでしょう。自殺者は秋野仁。恋人に蓮根アサ子。そのアサ子が秋野の友人に電話をかけて、その友人が自殺を決行しようとしている秋野に電話をさせる形で、大築賢太、飯山、佐伯邦生等が思い留まらせる努力をします。それでも甲斐がなく、最後はアサ子自身が電話にて「あなたが必要なの」と説得、この言葉にグラついた秋野は思い留まろうとするのですが、時すでに遅し、で首にロープは食い込むのです。発達障害というけれど、よくわかりません。弁証法の【生・反・合】の【反】の視点を自分の中に持てない人が多いのではないかと感じています。

ぼくたちの奔走 13

〈中学二年生になった〉と書き出されています。中二病とよく言われますが、当時はまだ単なる中学二年生だったでしょう。なにもないけれど、ただ内面的にはいろんな変化がある時期でもあります。単なる子供でもなく、大人でもない年齢なのです。目につくところでは髭も生えてきます。すでに「僕」は山岳部に入っていて、「初めての自転車旅行」も体験するのです。内木と直角と僕の三人です。「内木の事」のところでは、船員養成学校の話題で内木も直角も僕も夢を膨らませます。ところが知らないうちに内木は転校してしまうのですが、内木の隣に住んでいる岸田から、岸田も知らなかったことですが、話題の中で内木が死んだことが推論されるのです。内木には大西正子という特別学級に行っている女友達がいて、内木は自殺したのです。中学二年生の時のことです。

愛しのテオドール 前編

 私の体質のせいなのでしょうか。なかなか作品に入ることができませんでした。鉄腕アトムとかゴジラなんかだと面白がることができるのですけれど、人間の「手」が取り外しできて、しかもそれを料金を取ってレンタルするというのは、安易な発想のように思えてしまうのです。川端康成とか石田衣良もやっているそうですが、ほんとに小説になっているのか信じられません。でも、書いているのでしょう。もしかすると、作品の書き方がリアリズム的になっていて、リアリズムなのにポンと幻想そのものの世界であるため、リアリズムにも幻想にも取れないのかもしれません。どんな風に書いたら良いのか、難しい作品であるのはわかります。後編を待ちたいと思います。このままの展開が続くのか、それとも、更なる不可思議な何事かが招来されるのか、見ものです。つまんないことですが、大宮で、見沼珈琲という名は、土地柄が窺がえてなるほどなあと思いました。

さび抜きとストロー 2

 秀逸な作品だと思わされました。どうして「思わされました」と書いたのかは、この前までそこの所を読めなかったからです。つまり、とても軽いと感じた軽さを、今回は、それがこの作品の意図された文体なのだと気づかされたのです。折に触れて、数珠つなぎのあれでこれで、そうした浮いた、みたいなフレーズがいくつも繰り返して書かれていきます。P208上段13行目から下段の12行目まで。P210上段6行目にある「今日も休みます」「了解です」の、絞首刑の秒読みみたいなやり取り。P222上段8行目から13行目まで。どんどん蔓延して行く「軽さ」を表現するには、とりあえずこの作品のような軽さでもって描写するしかできないのかもしれません。とはいえ、弾かれたあちこちに、さび抜きであろうとストローであろうと、無視できない言葉や状況というものは現れるのです。そうした大事なものをチャンとつかめないと、今の時代、まともに生きられなくなっているのでしょう。かるい作品ですけれど、ほんとうの現実に刺さる作品でしょう。