毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
作品の内容と同様に、視点の時制の変容があり、迷宮に導かれるような感覚を持っている作品でしょう。「あれは、もう十年前の事だろうか」と、瓶のコルク栓が抜かれるように幕を開けます。つまり、その十年前に父と私は日本に帰ったのです。「燐」と、燐の母である「愛」は島に残ったのです。なお、燐の父である「博」は、八年前に死んでいます。この作品が書かれている時間でいうと十八年前になります。私の父は酒場の経営者。燐の父の博は、つまり愛の夫は天文台の宇宙物理学者でした。無数の赤い蟹が、東から西に向かって行進する時期のことでした。おそらくは繁殖のための行進なのでしょうが、そのこと書かれることはありません。私、燐、父、愛、博、の個々のことが描写されながら、相互の感情に踏み込む描写がないのとどこか通じるものがあります。さて、燐はどうして悪霊に取り憑かれたのでしょうか。悪霊に憑かれなければやっぱり死んだのかも…。
味わい深いエッセー作品です。時間軸を自由にとった『ラジャ・セバスチャン、元気ですか』は、2021年11月という時間点に立っているのだと自覚することによって、過去・現在・未来を、なんだか自由自在に想像させられます。冒頭の「…ススキサン、コロンボ、マタキテクタサイ。サヨウナラ」には、追想ならばこその時間があります。過去→現在・未来への時間の流れが、過去からの(ラジャ・セバスチャン)、別れの言葉が、未来において生きている「私」に木霊するのです。そうして回想します。私と子供二人と、姉のスリランカへの旅路です。スリランカ人は、あれやこれやとお金を要求しますけれど、それは貧しいゆえでもあれば、文化的に当たり前のことにすぎないのかもしれません。「この国の人、みんないい人ね」は希望です。息子さんの作文はとてもよかったです。「その時、ぼくは今は外国の人になっていると思った」は、お互いがお互いになる瞬間です。
今回の「読書雑記」に述べられている三題は圧巻でした。『可能性のメッセージ』で、古井由吉の芥川賞にての選評が、他の選者と異なって作品の表層ではなく深層にある可能性にコメントしているとの指摘、大作家としての矜持でしょう。『の』の項にての、笙野頼子が藤枝静男から受け継いだ文学なるものの〈師と弟子〉の深い関係には頭が下がります。また「志賀直哉と中野重治」の論争には、単に「私」にまつわる問題だけでなかったような気がします。新日本文学会の創設において、中野重治と志賀直哉は発起人として名を連ねていました。ところが開設時には志賀直哉の名前はありませんでした。『推しの現実』は、ただ「現実」なのかと感じるばかりです。古井由吉、藤枝静男、笙野頼子、中野重治、志賀直哉と、一家言ある面々が登場して、宇佐美りんでは、かなり違和感を持ちました。……状況なのでしょう。
青柳義男の東尋坊における水死体は自殺なのか他殺なのか、どちらともとれない状況で事は展開されていきます。妻の香苗、娘の由紀奈、息子の大学生・良太。原子力開発機構の松村課長、宇野上級技術主席、高速増殖炉研究開発センター技術副主幹の真田。坂井西警察署の越前正義、警部補の中村刑事、成宮部長刑事、奥平刑事。家族、職場、警察。自殺であれば家族にとっては非常にショックでしょう。その反面、職場や警察にとっては何事も無い事案となります。他殺だとすれば、三者三様にセンセーショナルな殺人事件となります。当然『高速増殖炉』が絡むであろう事件になるからです。無限に得られる夢のエネルギーとして開発されていた高速増殖炉も、何年か前に廃炉とすることが決まっています。そうした道筋と関係があるのかどうか、興味深々です。母の香苗、娘の由紀奈、息子の良太、家族のそれぞれの人柄がとても魅力的です。
ネットで黒真珠と打つと『魔除けの意味がある』と出て来ます。この作品の冒頭で、「わたし」は黒真珠を祖母からから頂いたのは二十歳のときでした。その黒真珠を頂くまでのプロローグとしてこの作品はあるのです。わたしが子供の頃、小学生、中学生、そして高校生と成長して、その過程ではいろいろなことがありましたけれど、死であったり、行方不明といったり、要するに子供には秘密にしておかねばならないような事柄でした。曾祖父や祖母の商才により、家はたいへん裕福なのです。気持の通じ合う家族ではないにもかかわらず、わたしは、美しい女性に成長していくのです。折に触れて描写される、たとえば東京オリンピックとか、札幌オリンピック、ファッションの時々の流行とか、今となっては懐かしい時代の風景の中にわたしはいます。最後の頃になって『野百合』嬢ちゃんと書かれていて、これは視点人物の名前かなと思いました。
ヰタセクスアリスってなんだろうと思い、パソコンに打ち込んでみました。これまでも只野さんの作品を読んでいるのに、なんだ知らなかったのかと思われることでしょうが、おそらく2回くらいはパソコンで調べてみてはいるのです。でも、どうも、疎いというか、記憶とはならず、あらためて今回もまた調べてみました。『性欲的生活』と出て来ました。なるほど、前回もそう出てきた解答のようで納得です。性欲的生活と書かれると、性欲的よりも生活の方が強く意識されて、恥ずかしいという気持は引っ込んでしまいます。生活なのですから一生懸命にならなければなりません。セックスは子孫繁栄のために必要なのですけれど、もう一つ重要なのは、共に生きていくための相互理解みたいなのとして不可欠でしょう。人生は長いですからね。もっとも、人生は長いのですけれど、一生懸命に生きてきた世代にとっては、それほど残されてもいないのが現状です。
理解しようとすると、とても難しい作品です。「夕方の、列車が運んでいく貨物の音が、手紙になって燃えてしまった」と導入されています。そもそも、「列車が」「運んで」「いく」「貨物の」「音が」「手紙になって」「燃えてしまった」と、離散したままの文節に留められているのです。普通の場合、文節と文節は意味という接合剤によって繋げられているのですが、それを止揚する何かが、この文章にはあるのです。言葉とは空間的なものを有しています。文章とは道筋のように、来た道、居る道、これから行く道と、時間を有しています。ということで、言葉で綴った文章というものは空間と時間の何かでしょう。はて、さて、です。そうした意味でこの作品、『午後の音源』は詩でなければならないと思います。冒頭に書かれている「無が存在しないとしたら」は、興味深い一節です。私の考えですと、存在のふるさとが無で、無が存在しないとしたら存在の一切はなくなります。