毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
ニュータウンのマンションに敦は住居を求めて棲む(住む)のですが、すべてが疑問符つきの現実です。管理人。実質的な管理人の恵梨香。敦。イメージだけの存在のダンサー。この四人で織りなす世界です。現実と幻想は別物ではなく、そうかといって一体のものでもなく、どこかで折り合う、併行世界なのです。マンションは二階建で、敦は203号室を希望して203号室に入室しますが、203も202も201も壁で隔てられてなく、しかも、一読しただけでは理解不能な崩れた廃屋なのです。つまり、101も102も103も201も202も203も、全部で一室の構造です。これは、現実と幻想との区別がないのと一緒でしょう。敦の前職である、足したり引いたりの計算をする仕事となんとなく相似しているのではないか、と思いました。なるべくして成った脳内にある〈ハウス〉です。
遊び心満載の作品です。父が死んで、過去解析機「レインボーメモリー」による追悼記録を残そうとの一点で、作品は動きはじめます。六十歳にてサラリーマンの世界から離れて、文芸サークルに入会、『桐箪笥』『石油の花』等を書き進めた父、と手繰っていきます。なおもレインボーメモリーは父・祖父・高尾ミハイル・曾祖父と、掘り下げられていきます。たくさんの人物や出来事があり、読んでいて記憶しようにもうまくできないのですが、ある作家の作品に『地下茎』という小説があったと記憶しています。その地下茎の無数の毛細根の拡がりを浮かべました。少し辿って見ると、他人のような先祖がいるのです。それらの先祖が生き、死に、涙と笑顔で、現在まで繋がってきているのは奇跡です。その軌跡が私たちの回りにはなんといっぱい溢れているでしょう。
とても落ち着いた作品だと思いました。それに風情があります。作者は、目に見えない何事かをあらわすことに長けています。音にしても、雰囲気にしても、動作にしても、それが向かう先とか、なぜその描写があるのかとか、生起して治まる先、静かさや騒々しさ、そういったものを自然とあらわす術を心得ていらっしゃるのでしょう。そこで「あまえび」です。あまえびを正確にはイメージできないのですけれど、体は小さいのに、触覚とかなんだとかの、いろいろと細かいところがヒュッーと長いエビのことではないかと思い浮かべました。作中でもそのような描写がありますので、ほぼ正解でしょう。由美子、繭子、中原くん、あまえびの送り主の良子。ほんのちょっとだけの由美子と中原くんとの再会ですが、あまえびは遠く、……。こうした世界の時間の描写がみごとです。
いつものように三つのパートから成り立っていますが、今回は前段・中段・後段といった、言ってみれば一つの流れに添った展開になっています。地方の大学を出て、東京に出てきて、同期会で一旦は盛況になったけれど、一人、二人と、田舎に帰る者が出てきて淋しくなった。という、振出しになっています。なんてったって健康、長寿が一番だということで、そのために効能があるのは、東の大関は「唐辛子」、西の大関は「にんにく」と、大いに語っています。栄養補給には欠かせない玉子、それを毎日生産してくれる鶏、その大切な鶏が死にそうなとき救ったのが唐辛子だったということは、落語の小噺みたいで、意外や意外でした。にんにくのコーナーは、にんにくです。肉体に精力をつけるのも、料理に深いコクを出す場合にも欠かせません。
すごいなと思いました。民舞のサークルに入ったものの、どこかで擦れ違うような感覚を覚え、十八か月で辞めてしまった、というお話かと思いきや、あにはからんや、極めた末の見極めた分析記録になっており、まあ、ほんと、すごいなと思ったしだいです。P183の下段で、初級クラスと上級クラスの間でのスムースな交流ができず、舞台に出ることに抵抗感のある初級クラスの会員はすべて退会してしまった、とありますが、もしかすると書かれている以上のことがあったのではないかと、推測されてなりません。民舞だと舞台に立つことが自然な流れです。剣道ですと試合に出場するのが、強かろうが弱かろうが自然です。瀬口さんが民舞を極めたのは、音楽の素養があったのと、剣道をやられていて、体のさばき方を心得ていたからでしょう。
トランプとバイデン。バイデンが勝ってトランプが負けたのは、ひとまずホットするところです。幻想だとしてもアメリカは民主主義の宗主国だと思っていたのに、今回の大統領選挙を通して、それが単なる「幻想」なのだということが明らかになり、暗澹たる気持ちになりました。トランプ支持者は今でもたくさんいます。日本においても然りです。橋下徹の名前があがっていますけれど、トランプと橋本の共通項は、「敵か味方」で物事を推し進めるところでしょう。なぜか敵をやっつけるヒーローを演じるのです。「敵か味方か」は「得するか損するか」に、直ちに短絡します。アメリカは病んでいるのだろうか。世界は大丈夫だろうかと、心配になってしまいます。少しずつでいいから、それぞれの国が正論を述べなければ、ますます事態は悪い方向へと転落していくばかりです。
いつも作者が書く「山」の作品とは一風変わった小説で、なかなか意味深に感じられました。誰とも会わずに登ってきた天塩岳で、背後から女性に声をかけられた、まずはそこから始まっている小説なのではないかと思います。古い地図を見て登山したため、他の登山者に会うことがなかったけれど、原紀子さんとは出会ったのです。クマと出遭うための登山で、原紀子さんと出遭った。そんな出遭いを天啓とでもいうのでしょうか。北海道のアイヌの人たちが熊を敬うように紀子さんは一目見たときから特別だったのです。山の朝や昼…夜の闇。動物の声。気配。緊張はするけれど、不思議と怖くはありません。それにしても、ひとつ一つの山の描写がすばらしいです。その山ならではの的確な描写がなされていて、北海道の山並みに対するいとおしい賛辞で結ばれています。
中国という壮大な国家の膨張の、刺激的であろう「現在」を念頭に置いて書かれた大作です。この作品自体はフィクションだということですけれど、あらかたは実際にあった出来事で、当局の仕組んだ自動車の贈賄事件だけがフィクションで、なおかつデモ等の主旨や広がりも、ややフィクションなのかもしれません。朱玉庭の自殺、妻である王愛華の自殺、王安の完全な失脚で幕を下ろしますが、隠れたドラマはまだまだ続くのでしょう。愛華が離婚書類にサインしないまま、つまり朱玉庭の妻のまま自殺したのは、悲劇ですけれど、救いでもであるように感じました。当初、高杉健を主眼に、朱玉庭を副眼に書かれていたのですが、おそらくテーマが大きすぎて安易には治めきれず、朱玉庭・愛華の悲劇でもって、いったんは幕を下ろすことにしたのでしょう。