毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
いやな爺さんの来店しての食事振りなのですが、不思議です。咀嚼に次ぐ咀嚼、さらにまた咀嚼。加えて咀嚼。入れ歯の取り外し。グラスでの洗浄。そして再び咀嚼。げっぷ。おなら。長いトイレ。終盤は無残な食べ残しと吐き戻し。最後はレジ前を占拠。しつこいクレーム…。店長からの「皆でやっちまおう」は、もしかすると日にちが変わってのことでしょうか。そうでないと、ちょっと矛盾します。店員全員の唾液の入った特製ハンバーグを完成させました。時間はいつもと同じく2時間かかりましたが、しゃがれた音声も、あの無残な食べ残しも吐き戻しもありませんでした。さて、どうしてでしょうか。単純に推測すれば「おいしいハンバーグ」ということになるのでしょうが、なかなか納得できない経緯です。もし、呪詛のようなものがあるとしたら、うーむ…、です。
変な作品です。一応、言葉は通じるのですが、通じ方が変なのです。言葉が通じるのなら、普通だったら共通の「存立」見たいものを共有するのですけれど、それがまったくないのです。萌奈美だけが「もなみ」として、相手に対して手ごたえのある反応をしますが、他の人たち、伯母さんはとくに対話を理解しません。それなのに話好きです。萌奈美の母、つまり伯母さんにとっては妹なのに、姉と妹という以外の心の通い合いをすることもできません。そこで野犬の群れですが、これは本当に野犬なのか、それとも宿をなくした人の群れなのか。どちらがどちらなのか解らなくなってしまいました。家族や友人でも話が通じないとすれば、他人なら、人間と犬との間ぐらいに遠ざかってしまうかもしれません。犬の顔を見て、見た顔だということは、とても怖い世界です。
無題4ということで、この作品の今回はちょっと作風において変身しているように思いました。棒澤貴市の遺稿で、「脱皮するアズミ」をモチーフにしているからなのでしょうか。同人誌でアドバイスをくれた滑川雄一郎氏や、昨年末に亡くなった時代小説を書く甲斐拓馬さん、また、同人誌はまもなく80号を迎えると言ったあたりの幻想やら現実やらのミックスは、表現すべき大地の存在に鋭く切り込んで、アズミの脱皮ではありませんが、文学なるものへの深い沈み込みがあります。それにしても「アズミ」の脱皮をどのように捉えたらよいのか、宇津和敏氏の腕の見せ所なのですけれど、姿形は変われども、ものに触れる心根はまったく変わらないということですから難儀です。「脱皮できない蛇は死ぬ」とはニーチェの言葉ですけれど、脱皮したアズミの言葉を見たいです。
四つの生活談からのあれこれ、『叔父に呼ばれて「従妹会」』『ネット購入に四苦八苦』『鯛釣りは、デパートで』『「K坂のシュトレーン」今いずこ』ですが、コロナ禍の今、単調にならざるをえないのに、その単調な日常に分け入っての作者の視点は頼もしいかぎりです。(女性に頼もしいというのは「?」ですけれど)。味わい深かったのは『叔父に呼ばれて「従妹会」』です。叔父さんの人柄もうかがい知れますし、姪っ子や、他の甥っ子たちの心通う様があたたかく描写されているでしょう。『ネット購入…』は確かに確かにです。『鯛釣りは、…』はデパートという組み合わせが「視点」になっていて、デパートにとっては「作者」が鯛なのかもしれません。『K坂の……』は、同窓会の二次会で行ったAちゃんの家ですが、Aちゃんも、その家も、年上のご主人も気になる存在です。
就職も決まり、自分でも信じられないような展開に、大丈夫だろうかという気持ちがチラチラして不安になります。そんな折の順子からの電話に無言で応えるのですが、その無言がとても重く、清美は持ちこたえられるだろうかと、読んでいて思わず応援してしまいます。登場する人物の造型は個々に研ぎ澄まされています。何度も推敲されているのでしょう。丁寧な書き方をすることによって、要所々々に展開の「間」みたいな時間を感じさせていて、うまいなあと思いました。清美さんがんばれ、です。この作品が、再放送されている『おしん』のようであるとよいなと思います。それにしても世の中には「迷い道」がいたるところにあります。右を歩いていても、気が付くと左を歩いていたりするものです。有り得ないことが有り得るのが現実です。次号が楽しみです。
「ドラマティク病」というけれど、何の、誰の病なのか、不思議ですし怖いなと思わざるをえません。そういった細部にある微細なものを見つめることのできる作者はスゴイです。文体はエンタメ的な乗りで書きつつ、作品構成は周到でかなり純文学的な趣が同時にあります。エンタメであり純文学でもあるというのは、作者がたどりついて優れた技法でもあるでしょうが、どこかで、どちらかにしなければならないのかなとも思います。紀伊さん、静野さん、真波さん、そして花音の関係ですが、紗凪は紀伊さんに興味を持ちますが、いつも昼食は静野・真波・私で決まっていました。オセロゲームのように展開され、静野さんが紀伊さんと「できて」悲劇かと思いましたら、最後の最後で、切れたはずの花音からの入金があり、あちらは男女、こちらは女女でめでたし…。
復帰のこと、おめでとうございます。しかも、以前よりも筆の冴えがアップしたようにうかがえ、これからも以前に増して楽しませていただけると思うと、うれしくなります。永井荷風を取り上げるのは、いかにも駒本さんらしいです。確かに文豪なのですけれど、かなり強く批判する方もいて、そうしたものに接すると昔気質の作家なのだと感じられ、なお視点をちょっとずらして見ると、生の永井荷風を感じることができるでしょう。永井荷風の先祖は大名だったけれど、武士の世界の決まりごとがうるさくて、自由な百姓になったそうです。荷風も日銀のエリートだったけれど、パリにて、猥雑な夜の街にこそ人間の本質があると、作家の道を選択したそうです。今回は「その1」だということですから、次には「その2」「その3」と続くと思うと、読むのが待ち遠しいです。
タイトルの『白菜と曇り空』が、何度見ても不思議な言葉の置き方だなと感じて誘われます。そしてその通りに作品は、気が付いたときには深く展開しています。まず蕗子のことが描写はされるのですが、「今年、三十五歳。貯金はあるが性欲は無い」で括ってしまいます。次に新しく配属されてきた二十七歳の広瀬ですが蕗子のことを、「あなたは白菜みたいだな」と言い、ふくらはぎ、踝、ふくらはぎへと戻って、さらに先へと向かおうとする。その先の関係はできるのですが、描写はありません。大事なことや、いろいろなことが起こっているのに、作品はそうしたことを、雪がそうするように覆ってしまいやり過ごすだけです。やがて広瀬は本社にもどり、蕗子は一人に戻ります。もっとも、蕗子は最初も、広瀬との逢瀬の時も、今も、ずっと一人だったのでしょうが…。