毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
紗凪は紀伊さんに恋をするが、とりあえず唯一のチャンスであるはずのランチは、静野さんと真波さんとの恒例化した「ランチ」のため、紀伊さんと距離を縮められません。同性である静野と真波との関係を変に大事にするのですが、静野と真波は同性愛者。なのに、ランチを共にするのは何故なのか紗凪自身もわからないまま展開していきます。「みんなで揃って休むグループ」に加わって、会社をずる休みし、休み明けの出社に際して、自分の椅子が果たして会社にあるかどうかにグッと緊張感を持つのですが、まあ、セーフでした。そこに花音の登場です。回想としての登場だけなのか、リアルに登場することになるのか、「中編」ではわかりません。「後編」が楽しみです。タイトルにある「ドラマティック」ですが、何がドラマティックなのか考えてみました。考えて、ドラマティックではないと思いました。ただ、紗凪の立ち位置がドラマティックなのであって、ドラマティックの渦中にありながらドラマティックでない果てしない「孤独」があらわです。
地理的な事柄に焦点を当てての作品かと思いましたら、そうではなくて、ある種の人間の業のようなものを捉えて物語った小説なのだと思いました。なぜドレイク海峡なのか、南極なのかわかりませんし、館山の鏡ケ浦との対比も必然性がイマイチです。もっとも、クジラがいるという点では共通していますし、丸い地球の裏側同士なのだという存在として、ドレイク海峡(行くところ)と舘山(帰る所)とは遠いながら近いのです。鏡香とミュージシャンの男とは出会い、男の話術にはまり鏡香は結婚し、子供まで生むのですけれど離婚……。その夫の遺骨の小さな欠片を南極の氷の大地に埋める、鏡香と娘の船旅なのです。P51上段11行目にある「自分の夢に飼われている私」は、意味深な言葉です。言葉というものには万能感がありますが、ほんとうは大した機能はないのかもしれません。反復して、反復して強調されると真実になってしまう。真実になってしまうと数多くの矛盾の坩堝になってしまう。しこうして、なおかつ言葉は波のごとく発し続けられるのです。
長年かけて作者の心の中に温めてきたテーマを、男の視点から組み立て直した小説です。時間軸が何層にも渡っているために、初めて読む方にはわかりづらいかもしれませんが、ほぼ同年齢である私には、時代のいろいろな出来事の色合いなどを理解できます。浩太と妹の紀子、浩太の子供の時からの友達である伸悟、妹の紀子と伸悟とは後に結婚しています。それと、浩太の叔父である誠の娘に詩織が居て、詩織は今回の作品の主人公でもあります。語り手が浩太です。伸悟と浩太で、戊辰戦争で官軍と戦った村の有志の心意気に触れ、胎内川のほとりにある杉の木に「誓いの言葉」を刻んだ思い出が発端となって展開していきます。「俺たちもあの村の若い衆のように…」に浩太が添えたのは、「僕は詩織のために命をかける人間になります」でした。詩織の出生の秘密、浩太と詩織が兄妹のように育った経緯、それらが綾を成してか、浩太の気持は気持ちのままで芽を出すことはありませんでした。男視点の作品になると、小説の広がりが大きくなったような気がします。
私は、辞典を辞典として意識することはありませんでした。この『辞典の新企画』のように、需要を求めてあらゆる辞典が発行されるのなら、きっと、言葉の数ほど多くの辞典が世の中に溢れるのかもしれません。六十代の女性からの苦情、「どうしてこの辞典はくらいのでしょうか……。読んでいると気持ちが滅入ってくるのですが……」は、果たして有り得ることだろうと納得はするのですが、この女性が〈辞書を読んでいる〉というのにもビックリです。その上でのことですが、暗い言葉を読むと暗くなるという素直な反応にも驚きました。暗い小説を読むと暗くなると言いますが、私の場合は小説は小説、暗くも悲しくも思いません。文藝学校の受講生から、森田童子の『僕たちの失敗』というCDをいただき聴いていましたら、和子から、気が滅入るからやめてくれ、との苦情があり、泣く泣く聴かないようにしています。辞典というものは言葉の倉庫のようなものなのですけれど、自己の内面との相対があるものだから、不思議と言えば不思議な存在になります。
コロナ禍の3月4月5月6月における鑑賞作品の記録です。☆印5つは、なぜか6月に集中して3作品ありました。その他でも注目されるだろう作品は数多く、特に、冒頭の『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』などは、様々なところで話題になりました。これと対を成すのはP137『ワンダーウォール 劇場版』でしょうか。この作品の舞台は、京都大学の学生寮のことだと思いますが、私が学生の頃友人6人と京都旅行をしまして、金が無くて、バリケードで閉鎖された学内に泊めてもらったことがありました。なんと、学長室の学長の椅子で一晩眠ったのです。その時見た学生寮の光景とそっくりなので、京都大学のことだと推察した次第です。コロナ禍で今回の《映画日記》は、作品数が極端に少なくなるのではないかと心配しましたけれど、意外や意外、探せばそれなりに上映館はあるものなのですね。もし間違っていたら申し訳ないのですが、映画は現在がもっとも隆盛で、製作本数は年々記録を更新していると、ある映画ファンから伺っています。
今号では、7月~10月に亡くなられた文化的著名人をあげての、先人に手向ける何事かの追悼であります。7月では、芥川龍之介(1927年7月24日没)を取り上げています。8月は、歌手の藤圭子(2013年8月22日・投身自殺)です。9月は大友柳太朗(投身自殺)で、10月は原口統三(水死)で、今回の『自死者考』を締め括っています。芥川龍之介、藤圭子、大友柳太朗、原口統三、と並べると、俄然、芥川龍之介が光って見えます。それは単に、創作に因んでの親近感からくるものなのでしょう。その分が加勢したのか、ずいぶんと詳しく書かれています。芥川にはそれぞれ名作がありますが、私は『蜃気楼』という作品が一番すきです。芥川が生きた当時、茅ケ崎でも蜃気楼が見えていたそうです。藤圭子は私も好きです。藤圭子と大友柳太朗は飛び降り自殺ですけれど、これは観客に向かって飛び降りたのでしょうか。そう思えてなりません。原口統三は、確かに私の学生時代に、まわりで読んでいた方が多かったです。
毎回、楽しませていただいております。巻末に、「本作品はフィクションであり、実在の人物、団体、国家等とは一切関係がありません」と銘されていますが、作品であることからブレないために、作者自身のためにこそ添えているのではないかと察しています。この作品が何事か到達点に至ることを読者として願っています。それにしても、ようやく佳境にさしかかっているように思われます。朱玉庭の革命理念はとても理想的なものです。それに対する、党の目先の利益を獲得するための政治的画策は、朱玉庭には国を亡ぼす間違った短絡的な利己主義に映っています。日系企業と尖閣諸島の領土問題をからめての諸問題。ウイグルの問題。こうしたことを考えると、人間に何事かを成し遂げる能力があるのか、と絶望してしまいます。民主主義と自由と平等は、200年以上前の理想でした。それを人間は革命によって実現したのだと思っていますけれど、身の回りをみてみると、さほど実現されてはいないのです。アメリカにしても中国にしても、振舞い方はよく似ています。
面白い構成です。冒頭に「詩」を置いています。するとすかさず自己批判が入り、子供時代と少女時代の双極としての推移、落ちた偶像でしかなくなった現代・現在の女と男の交渉、アタシはこんな男が好きよ、で終わります。詩のなかにある「冷たい雪」とは何だろうかと考えさせられました。熱いセックスがいく夜も降り積もって残したものが「冷たい雪」だとすると、美しいけれどかなりしんどいなあと感じられます。子供時代と少女時代を双極に置いたのも、早熟であったアタシは少女時代にはすでに大人になっていたのかも……。「21世紀の宇宙の扉」「鉄腕アトムの未来社会」「平和で平等な愛に満ちた社会」は、どこにいってしまったのでしょうね。子供の頃は真に受けて、心から信じていました。現実の外交とか政治を見ていると、相手を出し抜こうと一生懸命に策を練り、相手をその罠の中に誘いこんだら成功らしいのです。その点、セックスはうそをつきません。自分も相手もお互いが気持ちよくならなければ、気持ちよくならないのですから…。