毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
佐伯瑞生が郷里に帰り、姪のあぐりやかなえに迎えられ、看取られ、あの世に旅立ったあとの「始末」の綾がクールに描かれた作品です。血のつながりや縁によるつながりというものは、ややもすればこんがらかってしまいがちです。血や縁の意味するものは日常そのものでありながら、踏み外した日常の現れとなると、まるで非日常です。非日常が現れたとき人はどう対処するか。この作品『かけがえのないプレゼント』では、その答えを前向きに提示していて好感しました。かけがえのないプレゼントとは、なんといっても〈あぐりとかなえの仲直り〉であるでしょう。それと、ややもすれば平面的な日常に終始していたところに、思い出すこともなかった隆や美津子、その他、様々な失敗や成功が解き明かされ、絆を心なしに発見するのです。作品を読んで意外に思ったのは、長屋門のある家に住んでいる「あぐり」が、妙に砕けた言葉遣いをしている点です。それにしても、多視点的な工夫を要所に取り入れ、家族・同族の難儀な関係をうまく作品に仕上げています。
棒澤貴市の三作品目です。朗読の先生、元NHKのアナウンサーであった滝田早苗の教室に私は、つまり棒澤貴市もしくは「無題3」の登場人物たる「私」は通うことになったという作品を、「読む」のです。そこにはお手伝いのミキがいて、ミキさんは六十代、滝田早苗は八十前で、二回目に朗読教室に伺うと二十代の山下亜子さんとも面識を得ます。この日の先生の朗読は、坂口安吾の『桜の森の満開の下』でした。亜子さんは立原えりかの童話『あんず林のどろぼう』です。私こと山木は梶井基次郎の『檸檬』の朗読です。終わってからの食事会が揮っています。近所の畑から盗んできた大根を主体にした、ほっかほっかの「おでん」なのです。詩や小説の朗読の「声」に魂がこもり、そこに現わされるもの……。それが、わるいことだとは思えない「どろぼう」だとすると、朗読教室自体が文学・芸術の世界になっての、棒澤貴市の狂気なのかもしれません。滝田早苗も、ミキさんも、山下亜子さんも、絶妙な人物です。
タイトルが「美味しくナイス!」で、今回の小題が「平安朝・知らぬが仏変」で、この二つが並ぶと作品の意気込みがヒシヒシと伝わってきます。まず、〈美味しくナイス!〉の意味とは何か? ナイスと表記されると、確かに「素敵」の意味として肯定的であります。が、です。ナイスを二分割して「ナイ」と「ス」にしたらいかがでしょうか。「美味しくない」と「す」で、若者言葉の「美味しくないっす」を彷彿とさせられます。それに追い打ちをかけているのが、「知らぬが仏変」でしょうか。普通だと「知らぬが仏篇」なのではないかと推察されます。それを「変」としたのはジョークっぽくもあり、なにやら事件めいた出来事に変貌させられています。はてさて、『美味しくナイス!』章題「知らぬが仏変」のお披露です。参考文献として『今昔物語集』とあります。『今昔物語集』にはいろんなところでお目にかかります。一度は読んでみたいと思っておりますが、なかなか、古典を読む力がありませんので、ただ、ただ、自由自在に引用される方を尊敬するばかりです。
作者にとって北海道と長崎とは、思い出の深い土地であったのか、よく回想されています。私はサラリーマンの経験がないのでわかりませんけれど、四十代半ばの頃って、一番働き盛りの年代なのではないでしょうか。六十段の階段も、花街もなんのその…、仕事、仕事といって通われたのではないでしょうか。長崎くんちが出てきて、それが諏訪神社の祭りだというので、長野県の諏訪大社とゆかりがあるのかと思い、ネットでひいてみましたら、特に関係はないようでした。江戸時代の初期に、キリスト教に対抗するために諏訪神社を建立したのだとありました。とても良い時代を過ごされたのですね。家族は一緒にいるのが当たり前でした。近頃は、夫よりは子供の受験が優先されるのだと伺っています。娘さんの制服が風に飛ばされ、マンションから見下ろせる料亭「松の井」の庭園の松にひっかかった話が独り立ちして、いつの間にか奥様のピンクのパンティーに変身するまで、それほどの時間はかからなかったといのは、それはそうでしょうと、拍手です。
〈もしもピアノが弾けたなら〉で一話。〈木綿〉で一話。〈庄助さんがきた〉で一話の三題です。中学で音楽の成績が一番だったということに、とても興味を持ちました。数学や英語だと、単に勉強を頑張ったのだろうと思うのですが、音楽となると、その家庭の文化度というもので、どうしようもないと感じるからです。「駅ピアノ」。あの番組は私も好きです。プロ、アマ、問わずですが、プロもアマも〈音楽が好き〉という方たちで好感します。〈木綿〉は作者の家の生業とも関係していて、たいへん面白いパートでした。そして、「僕たち現代に生きる人間は、文明史的にみて、じつによい時代に生まれてきた」というのは、その通りだと思います。少しずつ、私たちは由来のわからない物や事に包まれてきています。〈庄助さんがきた〉ですが、庄助さんは「朝寝」「朝酒」「朝湯」が大好きです。とはいえ昨今、会津若松に住む友人から、誰もいない畦道をマスクをしないで散歩していたら、マスクをしていないと警察に通報されてしまったと、コロナ騒動ぶりの電話がありました。
宇宙の年齢を百三十八億年と見積もって、その片隅でもって二十万年くらい生きた私たちを、いずれ滅びますね、と高をくくってみるのですが、さて、そのこともいろいろな角度からの論争を生みそうです。人間は宇宙の支配者ではないのです。宇宙は神がつくったものでもないでしょう。ビー玉くらいの大きさだった宇宙が今の大きさになること自体、ちんぷんかんぷんです。無から有がバブルのように噴き出たのでしょうか。ビー玉のころの宇宙であっても、今の宇宙であっても、その浮かんでいる空間とは一体なになのか。さっぱりわかりません。それに、年末年始のテレビで、『欲望の資本主義』なんて番組をシリーズで見ました。投資をして利潤を得るのが資本主義だそうです。でも現代では、投資はほとんどゼロであっても、究極のAIを開発すると、唖然とするような利益が得られるそうで、果たしてそれを資本主義といえるだろうか。と、何度も繰り返しているように感じました。いろんなものが、〈それなら……でも〉の逡巡の中に迷います。
不思議な作品です。俳句の好きな小春が作品の発端になっています。作品を読み終わるとわかるように、小春というよりも〈俳句〉が、あたかもチェーンのように繋がって、わずかな縁でつながっている作品です。小春の俳句は妹の風花には伝わらないけれど、風花の娘の真珠美には伝わり、なにごともなく子供時代を過ごした真珠美の、その子供の頃の発表会でのもろもろ、それは伝わらないようでいて伝わっていて、句会のまとめ役の葬儀に参列して、そのつながりを理解するのです。もちろん、わかったようなわからないような感じにです。作中にもあるように、俳句は季語です。季語とか詠まれた言葉の意味は立つけれど、季節、季節はめぐり、記憶していることもあるけれど、忘れることもあり、記憶も忘却も等価なもので、ひょいと生きていくのです。「ありふれた」春夏秋冬です。元気なうちなら、小春のように、季語なんてどうでもよく愛敬です。金子兜太は無季俳句ですが、もしかするとあの戦争体験が、季節の巡りを拒否したのかもしれません。
大きくは1968年から1970年にかけての大学闘争を、小さくは美登里やT子との恋愛模様を、真摯に描いた回想作品です。この当時、大学闘争の渦中にいた者たちは、作者のような回想を何度も何度も繰り返し現在に至っているものと思われます。同窓会などがあっても、その当時のことをあまり話さなかったりしますが、頭の中にはくるくるまわる「何故か」という問いが常にあります。極端な左翼になるわけでもなく、体制に屈するでもなく、生き延びられていることには感謝です。大学によって当時の雰囲気はまちまちだったのだと言うことを、この作品を通して知りました。美大なのに、すごいエネルギーを噴出させていたんだなと感じます。その生命力には乾杯です。〈寝る〉の言葉に違和感を持ちつつ、〈抱きたい〉という表現に落ち着いたということですが、当時の〈主体性〉という言葉に〈抱きたい〉の方が主体の言葉になっているからでしょう。主体の言葉ということは、主体の責任ということでもあります。