2020年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:休会

夜の公園で

 夜の公園で、潤子と男の子の二人でブランコに乗っているという、クッキリとイメージされた映像に集約される小説です。慎二と潤子との間には、結婚してから十年経って隙間風が吹いています。「いずれ子供部屋になるはずの書斎は夫を飲みこみ」は、かなり意味深な描写です。潤子の塾講師、公園での少年との出会いと、進んでいきます。ブランコはとても象徴的です。単に坐っているときには現在、前に漕ぎ出すと未来、やがて戻り現在を通過して過去へと、うしろへと時間を振り向かせます。十年前に結婚して、その時、赤ちゃんを授かったなら、隣りのブランコに乗っている少年と丁度同じ年ごろだったはずです。ところが末尾になって、そのブランコの少年は死んでいたことがわかり、潤子の体験は非日常の時間だったと謎解きがなされます。黄昏時、ブランコ。少年は愛情を求め、潤子は生きがいを探し、確かな時間を出現させたのでしょう。疎遠な夫との関係も復元する予感があり、めでたしめでたしとはいかないものの、新しい関係を芽吹かせています。

ぼくたちの奔走

 これまでの『ぼくたちの、ひみつきち』が、中学生になり、晴れて『ぼくたちの奔走』として第二段階を迎えました。めでたい、その第一章です。その前段として、小学四年生のときのお姉ちゃんのピカピカの自転車、お姉ちゃんの日舞『新曲浦島』の模様などが描写されます。ほんとうに「浦島」だったのかどうかは作者に伺わなければわかりませんけれど、時宜を得た演目だと思いました。コラさんにジャックナイフを返したら、お返しにもらった牧野富太郎の『植物図鑑』が縁となって、浅井君から山岳部に誘われるなど、トントン拍子です。新設中学に進んだ「ぼく」には新しい世界が目の前にあります。小学生と中学生。別々に線で区切ることはできませんが、肉体の成長という点では明確です。声変わりがあり、作品にある射精。そうしたことを自覚することで、自意識が育まれ「私」がうまれます。それにしても中学に山岳部があるのって、驚きです。担当の先生が山好きで、強引につくったのかなと想像させられました。まあ、新しいスパルタ環境の始まりです。

遺言

 なぞなぞの作品で、さて先代の親方の『遺言』には何と書かれていたでしょうか、と問われる作品だと思いました。浦嶋満は、一般的には昔気質の料理人です。流行りに媚びない基本に則った信念に拘ります。ところが不思議なところもあります。研究会でのあれこれには背を向けて一顧だにしないのにもかかわらず、真反対の、客受けする料理を披露したりもするのですから。浦嶋、親方、先代の親方と、一応、料理法の伝搬が設定されていますが、浦嶋に欠けているものは何なのかが、この作品のキーでしょう。浦嶋が先代の親方の墓参りをして、そこでバナナを食べます。すごくおいしいと感じたのでしょう。さっそくしじみ汁に入れてみるという行為をとります。すると、もっと美味しくと、もっとバナナを入れ、それを他の職人が味見をしてみると食べられる代物ではないのです。このことで、現在の親方は浦嶋の技量をやっとわかったのです。浦嶋満は、真似ることはできても、料理の本筋のひとかけらも持ち合わせていないということが……。

金閣寺の炎上のあと

 三島由紀夫と水上勉を並べての文学批評です。短いとはいえ、かなりの労作で、堪能させていただきました。私は三島由紀夫も、水上勉もあまり読んだことがありませんので、詳細についてはわかりませんけれど、作者の主張に賛成です。三島は、書く作品が皆、三島の美意識に取り込んで完結させるところがあり、確かに他者不在に陥いざるを得ないのです。こうしたことは太宰治に似ています。水上勉はスタートがエンターテイメントで、晩年になって純文学に移行したのですが、日本の文学界は、どうも出自によって区分けをしてしまうのか、水上勉のその才を認めようとはしませんでした。三島と水上を並べて比べると、三島はこわもてだけれど弱い人で、水上は愚直だけれど強い人のように想像しています。とはいえ、三島を否定するつもりはありません。三島は水上の作品に接して、「負けた」と感じていたかもしれません。そうした「目」を、きっと持っていたと思います。プライドの勝った方ですから、そうしたことを絶対に口に出すことはしませんが……。

みどり色の自転車

 公立の図書館の描写から幕をあけます。円筒状の、A棟とB棟とC棟。A棟とB棟は一階部分でつながっていて、B棟とC棟は二階部分の連結橋でつながっている。丹念に描写された、丘の上にあるこの図書館は、なんだか迷路のようであるでしょう。さて、閉館のための見回りをしていると、背表紙に『みどりの自転車』とある本に釘付けになってしまいます。そして、六十年も前の記憶がよみがえります。新一とカオルちゃんとの思い出。みどり色の自転車に乗って、江戸川が海にそそぐ河口まで行ってみようとの冒険なのですが、思わぬ事故に遭遇してしまいます。カオルちゃんがダンプカーに轢かれてしまったのです。寄り道をしてしまったために、予定の時間を大幅にとってしまい、先頭を走るカオルちゃんの自転車はスピードを上げています。「もう少しスピード緩めて」と注意をしたけれど、カオルちゃんに声が届かなく、振り返ってバランスを崩したその瞬間に轢かれてしまいます。カオルちゃんは女の子というでもなく、新一の唯一の親友でした。

エオスの園

 別の宇宙からやってきた彗星が地球に追突するかどうか、という破滅的状況に陥るところから始まっている作品です。衝突することなく無事にすんだその時から、初めて深刻な禍が幕を開けます。「音」が消えてしまったのです。バベルの塔なら音は聞こえるけれど、言葉としての意味が通じないのですけれど、「音」自体が生じなくなってしまったのです。ここのところは、もう少し具体的に描写されるとよいと感じました。物には「物性」がありまして、音もその物性なのかと思います。水や空気や地面が存在するかぎり、音は在るのではないかと思われるからです。そのことは「置く」こととして、とても興味を引く作品だと感心するところです。なんとなくですが、百年、千年、万年単位で、言葉から意味が剥がれていってしまうように、現代でも感じるのです。言葉が単に、1,2,3,4,5、といった数字のようになってしまうのではないかという危惧です。この作品では、聞こえない所と・聞こえる所の斑があると書かれています。そこに救いがあるのではないでしょうか?