毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
面白い着想の作品です。〈二月記→松本貴代子〉〈三月記→金子みすゞ〉〈四月記→川端康成〉〈五月記→小口太郎〉〈六月記→太宰治〉と、それぞれのその月に亡くなった著名人を取り上げてのエンディング・ノートです。興味を持つのは、取り上げた五人の全員が自殺だったことでした。普通なら病死か、幸いなら老衰なのでしょう。なぜ自死をテーマに書かれるのか、その点は作中においても触れられないので、幾分、奇異に感じられました。なぜか〈一月記〉が抜けていますが、想像するに三島由紀夫なのではないかと、察せられます。深い見識がうかがえますので、作家論ではなく、作品論から迫るエンディング・ノートにせまると、より読み応えが出るのでは……。
文芸部の編集部に勤めるエリカが、先輩の和田がマレーシアのジャングルに夏休みを利用して旅行するので、代わりに作家の大山田先生の原稿取りに行ってくれとお願いされる、という粗筋から成り立つ作品です。その大山田先生の自宅は目黒の先にある「熱帯雨林」です。サルもいればサイもいます。もっとも、サイは大山田先生の奥様ですけれど…。まさにジャングルの中を掻い潜っての「仕事」ですが、さて、その「熱帯雨林」とは何であるのか。編集者と作家との関係そのものがジャングルだとの譬えになっている作品なのではないか思いました。命がけです。思考の熱気ムンムンといったところでしょうか。長い段落で重厚感を出し、リアルさを醸し出しているでしょう。
冒頭で「家の外でカラスが群れて、けたたましく啼いている」と始まり、末尾では「一層狂ったように騒ぐカラス」で閉めくくっています。この間に挿入されているのが、中野麻美とのセカンド・ラブなのですが、これを回想ととればよいのか、それとも「恍惚感」にうなされての妄想ととるべきなのか、微妙なところです。作者としては両方に読まれるように仕組んだのではないかと思われました。読者へのサービス精神なのでしょう。麻美とのデートは、いくら乗っても100円の市内循環バスですが、なんだか大人用のメリーゴーランドのようなものだなと、感慨深い思いがします。中野三郎と野中麻美は、中野と野中がお互い向き合った苗字で、愛称は抜群ですね。
いかにも現代的な文体の作品だと思いました。多くのところで「用心」した書き方をしていて、その「用心」が読む側に様々な思いをさせます。遠山紗凪は大丈夫だろうかと。(この名前自体が意図的。遠くの山…沙が透明感…凪が停止。紗凪に合わさると蛹でもあります)。「わたし」とはあくまでも私だと思ってきましたが、21世紀になってなんとなく変化したと感じています。なんとなくですけれど、「わたし」を他者化していつも考えるクセを身につけるようになったのではないかと思うのです。傷つくのがこわいと、よく言われます。そのために自分と、もう一人の自分の「わたし」を行ったり来たりするのです。すると、いつの間にか「私」は不在に陥ってしまうのです。
会っていないのに……会った、というのですから不思議です。不思議ですから、リモート同窓会に出席した面々に尋ね回ります。ということで「会っていないのに」となります。大学の同窓会ってあるのでしょうか。高校の同窓会、中学の同窓会はよく聞きます。小学校もあるでしょう。小学生のころの同窓会となると、確かに、浦島太郎状態になるのが想像できます。残念ながら面影の「お」の字もなくなっていますから…。さて、高校の同窓会を六人でリモートしました。六人なのですが、修一だけは七人のつもりでした。沙世子さん。彼女に何も不思議なことはないのですが…。覚えていないの「高校の時のこと」。ということで、なかった恋を体験、ラッキーな同窓会でした。
八方尾根スキー場で行われた「全日本スキー技術・選手権大会」の最中に東日本大震災に見舞われ、大会が中止になったことから書き始め、次の日、菅平高原スキー場で実施された「SAJ公認・指導員資格検定」も長野県北部地震のため中止と、踏んだり蹴ったりの状況からスタートする作品です。(二)では東日本大震災、(三)(四)ではスキーの衰退とスキークラブ・愛好者たち仲間の変遷が津々書かれていきます。パラレル小回りターン。(五)では、高速パラレル大回りターンが迫力たっぷりです。(六)では、いよいよ「バッジテスト一級」の検定となります。70点。合格です。と喜んだら、審議が出され、結果は69点。無念の不合格です。そして一年後、河合創は検定バーンに…。
この作品の核心は「鉄鏡」にあるのだけれど、作品を書き終えてもまだ謎は残るでしょう。不思議なことに、日本ではこの時代を〈考古学時代〉と考えるらしいのです。主な諸外国は、紀元前のころからちゃんとした歴史があるのにもかかわらずそうなのです。石器時代、縄文時代、弥生時代などの遺跡は出るものの、突如として大和政権が出現するのです。九州や出雲と大和との歴史の断裂は埋めなければならないでしょう。その要になるかもしれないのが「鉄鏡」です。なにしろ魏の曹操の鉄鏡と、鉄の成分が一致しているのですから。日田の有志が町おこしもあって熱心になるのはわかります。がんばってほしいし、古い日本の歴史がわかるなら有意義です。
この作品は、焦点というものがなく、相似形や対比で構成されていて、変幻自在に書かれています。あえて焦点は何かと応えれば、あまり重要でない図書館に勤める登場人物の「晴人」なのではないかと思います。見方として《「砂塵」←→「晴れ」》で対比していると取れます。「海」と「砂漠」も同様でしょう。砂塵は砂漠の気候ですけれど、砂漠そのものではありません。実家の寺にある本尊と脇にある腕。その逸話。砂漠から発掘されたミイラの右腕、米軍の古着の右腕にある穴。一人称なのに「私」の表記はなく、途方もなく積もり積もった時間を発掘する私は、この後どうするのかわからないまま筆を置いています。砂塵は砂漠だけではなく、世界さえ覆っているのかも……。