毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回も様々な映画が紹介されていますが、一目で注目せざるを得ないのは『東京裁判』でしょう。上映館の紹介もなく、映画のよしあしを示す「★印」もありません。世界の平和を達成するための死活問題との意識で掲載されているのだと思いました。末尾の「欧米が他国を自分たちのルールに 基づいて支配する構図」は、まさに絶対矛盾です。先日、国連の事務総長が、国連の使命を果たすための障害になっているのは、安保理だと、異例の批判をしました。つまり、民主主義を標榜しながら、彼等大国のやっていることは非民主的だとの批判なのです。現在の軍事力保有国の順位は、1位アメリカ、2位中国、3位ロシア、4位インド、5位日本だそうです。6位には韓国がランクされています。ドイツやイギリス、フランスの名前がトップ5にないのにはびっくりしました。国連を、その理念にそって改革しないと、またいつか悲劇が繰り返されるようでこわいです。
不思議な作品です。七歳年上の兄がキャンプにいく。そのための予行演習みたいに庭にテントを張るが、夜、そこで兄と一緒に寝ることを僕は拒まれました。実際にキャンプに行った兄は失踪したまま、行方知れずになってしまいます。テントに兄の他、誰かがいた形跡を残して…。ここで、兄と高校の女性教師が一緒に歩いていた記憶を、しばらくしてから僕は思い出しています。七年が経って、つまり兄の年齢にたどりつき、僕は兄が行方不明になったキャンプ場にでかけます。うとうとして、寝覚めたと思った目覚めは幻影の世界です。僕は女のスカートの中のふとももにつかまり、兄も片方のふとももにつかまっていたのです。邪推をしますと、兄が行方不明になったとき、高校教師の女性はどうしていたのかが省かれているため、整合性がとれないまま、非現実だけが迫ってくるように感じました。華厳の滝で自殺した東大生学生ではありませんが、「不可解…」。
ことさらに今回は難解な「日記」になっています。どこが難解なのか考えてみますけれど、難解な作品は難解なままで佇んでいるとしか言えないものなのでしょう。〈1〉において。モデルの知人宅なのに全身をとらえる鏡がひとつもない、というのです。「頭でかい」「痩せる脚長」とか「上下の色柄テクスチャー」とか、部分だとか色だとか、ピンポイントのものごとしかわからないのです。これは映らないのか、それとも思考として全体がないのか、そこのところは不明です。しかし、その部分でもって「似合う」とか「ステキ」とか「美しい」とか言えて、困らないのですから不思議です。相対化といいますけれど、これほど極まった相対化となると、シュールの極みです。まるで主観の世界であるように見えて、絶対の客観の世界であるでしょう。ということで、おもしろい作品だと思いました。強弱はありながら、〈1〉から〈15〉まで趣向をかえて書かれています。
大きなプレゼントになったのは「つばさ」にとってですけれど、この作品を読んだ読者にとっても大きなプレゼントになりました。希望は、誰にとっても「希望」になります。足の病気で車椅子に乗っているつばさにとって、毎日、山を登って来て、山を下る列車はあこがれであるでしょう。ただ作品はつばさ君を中心に書かれているためか、やや、脇が甘いように感じました。鉄道廃線は、廃れた村だと起こりえることですけれど、人工8.000人の森中村で農業が盛ん、と書かれると、廃線の必然性が薄れてしまいます。たとえ車社会になったとしても鉄道の需要はあるはずです。8.000人の人口のある村は、村ではなく、おそらく「町」なのではないでしょうか。山の上にある森中村には田が広がっているというのも、不自然な感じがしました。もっとも、こうしたことにあれこれと拘泥してしまうと、つばさ君の美談は成り立ちませんから、致し方ないのかもしれません。
作品というのは、その書いたときの時代を正直に写すものだと、つくづく感じました。1月3日、正月のおめでたい日に高尾山にボランティア登山するのですが、今となっては夢のような題材です。あれほど街に溢れていた中国人も、コロナを境としてまったくいなくなってしまいました。この作品に書いてあるのは、一つにはポランティアとして高尾山に登る楽しさです。それと結末での新宿での暗い事件でしょう。どちらも創作だそうですが、高尾山に関しては描写が細部まで行き届いていて、大いに楽しめました。渓谷や吊り橋、流木や年輪のある大木、登山ルート、と多彩な描写が盛り込まれています。黒い年輪は、結末の新宿での出来事とも共鳴して書かれているでしょう。男性には男性の、女性には女性の、裏社会的な欲望が露出して終わっています。あんなに楽しかったのに、あんなに希望に燃えていたのに、です。ということで、コロナ禍が襲ってきました。
前回まで、この作品は小説のコーナーに入っていましたが、今号から随筆のコーナーに移りました。随筆でもあるのでしょうが、「地誌」が本筋でしょう。その地誌であることの核心に『金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡』が位置しています。なにしろ古代史日本の起こりに焦点の当たった地誌なのですから、事の顛末から目が離せません。邪馬台国論争は今も盛んです。邪馬台国は大和にあったのか、それとも北部九州にあったのかの長い論争です。NHKの番組で、客観的な立場をとれるだろう、中国人の古代史研究者3人に魏志倭人伝を読んでもらって意見を伺ったら、3人が3人とも、邪馬台国は北部九州にあったと結論されたということです。文明文化が伝播する合理性からいって、そのような結論になるとのことでした。卑弥呼と鉄鏡。なんとなく、神話ではなく歴史で語られる歴史がやっと幕を開けるような予感がします。「底霧」が晴れて、そこに何が見えてくるでしょうか……。
これまで作者が書いてきた作品に、最後のピースをはめこんで完成させたのが、この小説なのではないかと思いました。「青白き肌」とは祖母の背中に彫られた観音の刺青です。飛躍してイメージすれば、観音は来てくれもするし、迎えてもくれます。波に漂う「海月」のようなものであるでしょう。波に漂った長い時間があります。それは祖母の通夜の夜になされた回想として…。左手で箸を持ってはいけない、の戒めは、単なる戒めとして言われるのではなく、左利きだった元春さんの記憶からくるもので、それゆえタブーだったのです。裕太が元春さんの面影を持っているがゆえに、ことさら憚られたのでしょう。岬の上で、祖母が元春(夫)に止めを刺すシーンは衝撃的でした。祖母はこの後、背中に観音様を彫ったのでしょう。裕太がお見舞いに行ったとき祖母が裕太に、(P89)「あんた、どうして、帰って来たのか」と声をかけますが、元春=裕太の瞬間です。