毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
小説は構成ができているかどうかということが、その作品の言わんとすることが伝わるかどうかにかかります。今回は、これまで以上に構成への心配りがあるように感じました。ラムネ瓶を常磐線の鉄橋の上部に投げつけ、割れた青いガラスが辺り一面に飛び散り、満月の月明かりに輝く、その「一瞬」がすべてでしょう。一瞬の中味とは、母と父、父の先妻の義姉と義兄からの酷いいじめを受けた記憶、道行くおじさんに導かれて迷い込んだ先のサーカスなど。ピエロに変身していたおじさんは、「わしは君のお母さんの父親だよ」と言いますが、それはどこか遠い物語です。おじさん→ピエロ→母の父親→ぼく自身の影、とめぐりながら青いラムネ瓶の破片が月明かりに輝いて辺りに落ちていく光景の一瞬だったのです。
マルチーヌ公園という名称は、何かの紙面で何度か見たことがあり、記憶に留めていましたが、詩人で政治家だったアルフォンス・デゥ・マルティヌ氏のことだったとは知りませんでした。日本で言えば哲学堂公園に相当するものでしょうか。他の公園だと入園料をとられますので、誰でも入園できません。自由には入れるマルチーヌ公園は、作者にとってパリ滞在中のお気に入りの散歩コースだったのでしょう。映像になってそのことが伝わってきます。作者の好きな、気に留めたパリがよく描写されていて、一緒に歩いているような気分になります。花屋さんもカフェも学校もパリです。学校に校庭がないのはテレビで見ていますから知ってはいるのですが、いつも不思議に感じます。日本の学校の校庭って、富国強兵の一環だったのでしょうか。
図書館というのは、ホントに不思議な森のようですね。ことに、その森の中でも辞典という書物は異例な「言葉」の森です。その言葉で綴られた「作品」ではなく、出版とか、文学賞に絡んだ著者名とか出版社名、年代、作者紹介、多岐に及んでいます。「作品」は森の木になっている「果実」のようです。疑問に思うのは、こんな辞典を誰が読むのかということです。それに、採算に合う出版物だろうかと危ぶまれます。一冊、一冊を手に取ってながめていると、確かに迷子になってしまいそうです。でも作者は、その中からご自分の名前と作品に出会えたのですから、まずは目出度し目出度しです。それはそうですよね。その目にした名前と作品は、一つの「どんぐりの実」なのですから…。文芸春秋社の「作家名鑑」だったでしょうか、見たことがあります。
今回の作品を読んで、タイトルの意味について考えさせられました。青空を突き抜けた先にあるのが蒼空なのではないか…と。その蒼空のまた先にあるのは、宇宙の闇です。その闇みたいなものに挑戦する作品を書かれているのかと考えさせられました。ミステリー小説だと、どんなに入り組んでいても解決されます。ところが現実世界の場合、書けば書くほど「闇の中」に入らざるを得ません。ウイグル人の闘争は何を目指しているのか。おそらく民主的な選挙をすれば、ウイグル人は負けてしまうでしょう。漢民族と少数民族を足すと、多数派になるからです。民主主義が万能でなくなったのも、この間の香港、アメリカ、ヨーロッパを見ていても痛感されます。なんといっても、民主主義を標榜する指導者が独裁者的な振る舞いをするのですから。さて、次回が楽しみです。
奇妙な入り方をした作品で戸惑いましたが、結果的には「構成」によるものなのだと納得しました。野菜の実を果実と表記するのには違和感を持ちましたが、ただ、すぐに車のポモドーロが出てきて、ポモドーロとはトマトという意味だとのことで、納得しました。どこまでが現実で、どこまでが幻想なのか、明確な線引きをしない書き方をしていて、一種、難解でしょう。病院に乗せていってもらう設定ですが、果たしてこのことがリアルな事象なのか、読み終わって混乱させられました。恭司は本当に理恵と会ったのか。理恵は亡くなっていて、恭司が見たのは幻なのではないか。そうしたことが天気雨(狐の嫁入り)とか、雲間から射す陽の光(天使の階段)とか、沼の向こう(あの世)から刺激されるのです。果実をつぶす、ポモドーロの理恵(死)が連想されます。
1994年2月、山スキーのパーティ男女7名の遭難事故が発生した、と書き出しています。文学市場が創設されたのが1995年ですから、その1年前の事故です。次の年、1995年は阪神淡路大震災があり、オウム事件と、このころからバブルの破綻からなのか、まがまがしい災害、事件が始まったと記憶しております。スキーも登山もちんぷんかんぷんですが、ただ一点、うまく滑走するためには、重心を前に運び置かなければならない、というのには、なるほどと感心させられました。でも、理論ではわかっていても、実践となるとそうはいかないものだと思います。できる人には、できるということでしょう。なんにしても、基本と基礎が大事なのですね。時には断念する決断が大事なのだと思います。拍手喝采を受ける感激は、成し遂げた者だけに与えられます。
今回の作品にて何となくですが、この作品の意図のようなものが見えてきました。「古希を記念しての同窓会」、そのためのあれやこれやのカット的な小編を書き、懐かしい同窓の面々で、時代を共に生きた喜びにしようとのことではないでしょうか。悪いことも、よいことも、みっともないことも描写して「青春時代」なのです。私も一年前に古希の同窓会に出席したことがあります。小学生の同窓会でした。容貌に見覚えのない方もいましたし、全然変わらない方、いまなお美しい方と、いろいろでした。学と睦子、初デートはうまくいったような、いかなかったような、なにかしらあのころの学生って、みんな純情だったのです。東京出身者は別として、田舎から出てきた者は一様に純情でした。『ブルーライト・横浜』には、正直、泣けてきます。
冒頭に置いてあるドナルド=キーン氏の、満州事変からの日本近代史は文学になりうる、との説には、ただそれだけですと同意できませんが、戦後文学という観点からの物言いなのでしょう。一度だけ、宮藤官九郎の小説を群像にて読んだことがあります。リズムの軽妙な作品で、面白いことは面白いのですが、文学かと問われると、小説だけれどエンターテイメントの小説だとしか思えませんでした。ただ、いい作品だと思った記憶は確かです。大河ドラマになった『いだてん』ですが、観たことがないので何とも言えません。その大河ドラマに出演した俳優に物を言わせているところはダメなのではないでしょうか。なんとなく文学とはかけ離れた、出演料をいただいている制約のもとでの対談なのではないかと読めます。確かに才能のある方ですけれど……。