毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
作品は短編で1~4項に書かれています。これを〈起承転結〉と捉えてよいのかどうかわかりませんが、理解しやすいように、そのように捉えてみました。〈1〉では夢の中の母が魚のように泳ぐ姿が書かれています。まだ、母と魚の相関的な描写はないのですが、導入となっています。「蒼い魚」と「紫色の空間」なのです。それら全体の眼差しの向こうが母なのです。〈2〉「夢=死」の関係が現わされています。自己再生と死の顛末のような項でしょう。〈3〉は盛り上がる場面で、母子の会話がなされます。でも「そこにいればいいよ」と母に言い、「僕もここにいたいよ」の言葉を重ねるけれど、母の言葉は「楽しみだね」「面白い顔をしているよ」とすれ違います。〈4〉は目覚めの項です。母=死=魚=僕の世界からの目覚めですけれど、目覚=夢の死=無の循環、なのかもしれません。前後の文章の間で、際どく矛盾する言葉が挟まれていて、なかなか思考力が追いつきません。
バランスのとれた作品だと思いました。私と冴子が軸となり、その経年劣化の家庭模様が描かれています。私の側は、ぎょろ目の隊長と細身の女の三人組として。一方の妻の冴子の側は、官僚の奥方と医師の重田と豪華トリオです。冴子の浮気(精神的ものか?・肉体的なものか?)がミソとなっているでしょう。高尾山の描写は見事です。まるで登山マップを見るようでもありますし、風景描写も実感が籠っています。これは、作者自身の体験が積み重なってのものと思われ、堪能させていただきました。重田の病院で、重田の友人が執刀するとありながら、実際には重田がメスを握るような展開になり、その入れ代わりが微妙です。タイトルの「冴子のメス」とは、そのことかと感じました。つまり、あきらかな「殺意」があっての手術なのでは……。だとすると「私」にとってはひどい結末です。もっとも、一番平凡だと思われた「私」が、もしかすると一番の変人なのかも。
[旅の途中に]青木朋は、残された者の哀感が切々と漂ってきます。居酒屋が満員、桜並木で時間をつぶし、また居酒屋にもどるが、先ほどよりも混んでいる。ここでバンダナの男と目が合います。実は、坂本が新開さんと初めて会ったのも、炉端焼屋でした。文学市場の「若松さん」が店長をやっていて、そこに来ていた客の新開さんと出会ったのです。社員を四、五人連れて賑やかな一団でした。いるはずの人がいない、そんな間が描かれた追悼小説です。
[新開さんのこと]檜山隆史は、尊敬する先輩である「吉田さん」を介在させながら、文学市場の例会で偶然の出会いをする以前から藤本さん=新開さんを知っていたことが開陳されています。新開さんの剣道にまつわる話は、武道魂から言って、鬼気迫る間合いがあって、とても楽しかったです。私は剣道、これを新開さんはスポーツ剣道と言っていました。新開さんは、この追悼文にあるように古武道=実践剣法の流派でありました。正しいことに立つ、そのことを身上とした男でした。
[新開拓海さん、ありがとう]北上遥は、文学市場の合評会風景や、新開さんの人柄などが織り込まれた追悼で、まことに大事な人を失ってしまった思いがします。北上さんが出版された『北上川の流れに』に新開さんが書いた感想は、いかにも新開さんらしいです。「啄木、賢治のように遥か北上川に想いを寄せる作者の心の中にも郷土に対する矜持のようなものが感じられます」の一文の中に、「遥か」「北上川」と、「北上遥」を潜ませてのエールは、新開さんならではの心遣いでしょう。
「さくさく75号」に掲載された、栗山京子作『迷子の大人たち』に対する作品批評です。おそらく、掲載作品をこのように丁寧に批評した作品は初めてではないでしょうか。作者にとってもありがたいのではないかと思います。私って、そんなふうに書いているんだ。ちょっと違うかな。なんて、作者はさぞかし励まされることでしょう。文章の数、体言止め、などなど文体からの「手相占い」のごとき分析は、なかなかしてくれる人はいません。「読む」と「読む」を、文意を読むと行間を読むとしたのは、なるほどなと感心しました。真由子は「沙世が私たち手指がそっくりだと告げる」「幸福な四人家族の作り話してしまう」。沙世は「高校生の母親になるかも知れないと漏らす」。この描写は、読んでいてハッとさせられた一文です。その「ハッ」としたのは、タイトルの「迷子の大人」を言い当てている箇所でもあると感じさせられました。確かに、うまい作品ですね。
醍醐味のある作品です。おそらく鉄鏡の醸し出す考古学的な力なのかもしれません。読んでいて感じるのは、「底霧」が晴れると、そこに鉄鏡が浮かんでくる、みたいなワクワク感があります。邪馬台国論争の重要な一端を担っているものと思われます。邪馬台国は九州にあったのか、それとも大和にあったのか論争が延々と続いていますが、中国の三人の古代史研究者に魏志倭人伝を読んでもらったら、三人が三人とも、邪馬台国は九州にあったと明言されたそうです。地理的な文化の伝播から言っても北部九州説は理が通っているように思います。ということで「日田」です。作者の郷土愛には頭が下がります。小説と古代史、文化と産業発展、諸外国との共生、これらを「底霧」で思いっきり書き切ろうとしています。かなり難しい作業で、まるで紙数が足りないとお思いになるでしょうが、ぜひとも完成させてください。謎の卑弥呼の姿を見させてください。
以前に書かれた「紋付鳥の住処で」の続きとなっていますが、その当時にあった実在感はややうすれて、どこかファンタジー的な創作に踏み出している作品だと感じました。以前にも増した作者の真骨頂がいかんなく発揮されています。身分制度はなくなったが、それでもしたたかに存在していた昭和30年代、それ以降の移り変わりを見事に描写するとともに、昔にもなかった、現在においてはなおさら存在しない、人間の情みたいなものを、「紋付鳥の住処」としてあらしめているでしょう。34代続く篠田家にはモデルがあると伺った記憶があります。その他は創作だったそうですが、その創作を引き継いでの今回の作品は、見事なものです。清乃さん、宗太郎さん、植木職人の久平さん、それと視点人物の知江さん、不思議な共同生活ですが、身分の異なる四人が家族のように住んでいるのです。古い家に、血のつながらない四人が、未来の人間関係のように…極楽のごとく。
いろいろと変化した「由比子」シリーズです。作者名が漢字で表記されているし、末尾に「番外編」と置かれているあたり、冒頭の「神様なんていないと思う」と、なんとなく神様に告白しているような趣があったり、様々です。子供の頃の私、少女だった頃の私、大人になった私、つまり「私」を見つめるシリーズ「6」になっているでしょう。「自分だけの、アタシ専用の愛が欲しかった」が、なにやらアタシの真実のように存在しています。由比子にとっての安心を得られる瞬間でしょう。でもです。そうした純粋な「愛」を求めるからこそ、その愛が失われると、間々、失望するのではないかと思います。神様って、心の平穏をもたらすために措定された言葉だと思います。あまり狂信的になると神様自体が争いごとを生起させてしまいます。18歳のときに、16歳の妹さんが亡くなられたとのこと、哀しい出来事でしたね。神様は、神をうらむことも受け止めるでしょう。