2020年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:休会

ひどい女 後編

 サービス満点の作品だと思いました。読んでいて分かり易いのはいいですね。しかも文体が妙に新しいのです。かなり反復した相互のやりとりがありますが、その反復が巧みです。反復が接続詞のようになっていて、なおかつ、その反復によってズレとか転移を生じさせ、個々の人間にあるエッジを明確にしていくのです。個の明確は孤独を浮かび上がらせ、後になってみれば調和するのです。家族は家族、恋人は恋人、友人は友人に…。前編では、「ひどい女」とは姉のことだと読まされました。中編では、視点人物が「ひどい女」だと思わされました。今回の後編では、「ひどい女」も「ひどい男」もいなくて、目の前にある様々な事象を受け入れつつ過ごす優しい「人達」だと、考えさせられました。宇宙に行った朝比奈君が「わたし」の心の中にいるって、いいですね。

父の詩集 後編

「父の詩集」って、つまり父の詩は不思議な詩集だなあと感じました。読んでわかるとおり、詩らしくないのです。それを「詩」だというのは、おそらく言語論的な含みがあるからでしょう。父の詩に渚が手を入れたことを、「風のホール」に集る詩人たちや亀山は激怒します。つまり、意味の通る詩と父の原作とでは、根本的な違いがあるのです。そこのところが不思議です。あたかも存在には実体がなく、言葉という無存在に実体があるがごとき、捉え方をしている小説でしょう。しかも、現実に起こったことって一つなのに、不条理ではありませが、幾通りもの真実がこぼれ落ちてくるのですから、手が込んでいます。「風のホール」に風が通り過ぎたならば、そこは、まったく別の世界が現れるのかもしれません。宇宙は一つではなく、無数にあるのだというふうに……。

太宰の文学を愛した優しい人びと

 作品論とか作家論は、ましてはそうしたことのエッセーとなると、興味を引かないわけはありません。なるほどと楽しませていただきました。太宰を評価している方々、長部英雄・奈良岡朋子・安岡章太郎・亀井勝一郎・坂口安吾・織田作之助・田中英光・武田泰淳・檀一雄の名前があがっています。片や批判的な方として、志賀直哉・広津和郎・川端康成・中村真一郎・三島由紀夫の名前をあげています。この中で武田泰淳は『富士』のなかで太宰のことを「生意気なあんちゃん」風に書いています。一方で三島由紀夫の文体をうかがうと、確かに太宰と通じるものを感じます。私も『お伽草子』は大好きです。でも、その後の作品は少しずつ興ざめしていきました。心中未遂を何回も繰り返すのは、文学的ではないと感じたからです。文章は、確かにうまい作家です。

商売根性

 いつも作品の構成には感心します。「釣り針はどうなる」「中華街は逞しい」「ホヤのこだわり」といった三題のとり方自体が、すでに構成になっているでしょう。銀座と長崎の地理的風土的対比、中華街の歴史を背景にしつつ江戸弁をつかう中国人(?)、函館の理想の寿司屋夫婦の離婚から幕が開きますが、寿司屋の屋号が「すし松」なのに対し、別れた女房が開店した日本料理店が「松風」なのは、「松」つながりで元夫婦の余韻をどことなく保っています。ストーリーの本筋に絡ませる小道具のような挿話が巧みです。なんとなく映画「寅さんシリーズ」を彷彿とします。一般的に、航空会社はハイクラスな職場と思っておりましたが、サービス業の基本は一緒なのかもしれませんね。「路地」がよく出てきますが、ほんとに美味しそうなお店なのではないかと、誘われます。

あぁ、米沢や、米沢や

 歴史を俯瞰すると、作者の米沢での酷寒に耐えた三年間って、すごいなあと思いました。米沢藩は鷹山の登場で一息つきましたが、その後も、作者の過ごした当時まで貧しい生活は続いたのですから。日本で一番の大地主・本間様が登場するのも、農民が土地を手放さざるを得ない状況があってのことでしょう。それにしても、リンゴ泥棒を作者がしたというエピソードは意外でした。想起すれば、東京オリンピックは日本のスタート地点だったような気がします。なにもかもが、あっという間に発展した時代でした。あきらめてはいけないのでしょうが、下り坂に入った現代・日本に、あまり明るいニュースはありません。民謡を唄い、自分を慰めつつ、明日を展望するのが肝要なのですが、さて……です。血のつながらない四人で暮らしている広大な旧家って、絵になりますね。

棒澤貴市の不完全な遺構

 三十代の頃、一年間くらい同人誌で一緒だった棒澤貴市から十年後に手紙を貰います。二人は小説を書くことに関してよいコンビでした。私こと安堂則政は亡くなった棒澤を訪ね、彼の遺稿「無題Ⅰ」を読み始めます。川端康成「片腕」、石田衣良「片脚」、彩瀬まるの「くちなし」などと同じように、肉体の一部を付け替える内容の小説でした。川端などもそうですが、この作品でも、精神的には筋がとおっていながら、肉体的には肉体としての一貫性はないらしく、どれも相対的にバラバラなのです。ですから、痛みというものがありません。ということで、「無題Ⅰ」は終わらないまま終わります……。私は遺稿「無題Ⅱ」に手を伸ばします。推理するならば、棒澤の命をかけた目論見は、肉体ではなく、小説を書く「才能」の付け替えなのではないかと想像させられました。

パリの意地悪 3

「パリの意地悪」が好転する章となっていて、吉沢紀子が吉沢紀子を深く意識する結末を迎えます。パリにフルーツを学びにきた紀子でした。一生懸命に学びました。けれど、料理にしても人間関係にしても跳ね返されてしまいます。挙句の果てに引きこもりになってしまうのですが、手を差し伸べてくれたのはチューニンです。掃除人が掃除をしている→掃いたあとにバラの花びらが残っている→水溜りに桜の花びら→綺麗→あのバラの花びらは歩道を飾っていたのだ→あれは掃除人の粋な計らい。単純なことですが、この思考をクルリと自分に受け止めることができて、紀子は自分の目的に復帰できたのです。猿真似ではだめなんだ、自分の中にあるもので表現することが大事なのだと。作中に登場するアンパン、考えてみると確かに画期的な文化的産物ですね。

このくにのきずな 3

 かなり惨憺たる「このくにのきずな」です。抽象的に書かれると抽象で身体的には考えないものですが、今回の作品のように具象的に描かれると妙に絶望的な気分になります。「私道をはさんだ向かいの家」です。私の住む家と向かいの家を対照的にとらえた一篇です。「公道」ではなく「私道」としたのは、意識されたのかどうか絶妙に描写されています。公道だと、私の家と向かいの家の間には「公」(おおやけ)があります。私道だと、共有している道で、隣同士という関係ができるはずなのに、それがないのです。ではどうしてそうなのか。あなたが考えて見なさい、というのが今回の作品でしょう。「我が家ではあり得ない」とパパは三回言っていますが、もしかすると個の関係のなくなった社会では、自らの上にも降ってくる現実の不安を現わしているのかも……。