毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
若い女性を登場させ、なおかつその女性の視点で書かれたのは、作者にとってはじめてのことで新鮮な感覚がしました。書かれていて楽しかったのではないかと推察します。冒頭のところで、父親の部長昇進に際してカラーコンタクトレンズをねだる場面は、なんとなく由衣の由衣らしさを現わしていると思いました。生き方にメリハリを持たせたいのでしょう。看護師の由衣は、お決まりのように医師の加田と恋愛をしますが、この恋愛は作者の親心のようなコントロールに左右されたのか、どうも「書いてみました」風にスルーしています。つまり、由衣の視点が少し弱くなっているように感じました。目標にしていたのか「国境なき医師団志望うんぬんかんぬん」のことが入り、加田医師の死等々様々なことが生じ、由衣の看護師人生は続くのです。
「Z夫人の日記より」なのですが、これまでの作者の視点といっぷう変わっているように感じました。神無月の日記ゆえでしょうか。神様がいない月ではありませんが、「Z夫人」から「夫人」が抜けてしまって、「Zの日記」になっているように味わったのです。作為がなく、素になった書き振りには妙に引き込まれます。「十月某日〈1〉」と「十月某日〈4〉」は特に面白かったです。〈1〉は叔父さんのことで、何もかもが明瞭に現れています。また〈4〉は、わたしの内面風景を形作る時空間だと思いました。泣こうと思えば泣けるし、思考を働かせれば笑うこともできる作品でしょう。言葉とか文字とかが在るって、ありがたいことです。もしなかったならば、ただボーっとしているだけでしょうから…。私は10月生まれなので、「神無月」は「私」をとても意識します。
小学生や中学生の頃は、ほんとに楽しかったですね。当時のことをふっと書き出してしまうと、ほんの少しのつもりであっても、止めどもなく、いろいろと綴られてしまいます。おそらくこの作品もそうなのではないでしょうか。思いのほか長編になる予感がします。ストーブ当番は懐かしいです。私は中学での記憶はないのですが、小学生の頃は毎日が当番だったと記憶しています。朝一番に学校に行き、石炭を持って来て火をつける。気持ちの良い毎日でした。ということで中学生…。小学生とは異なった思いだったのではないでしょうか。朝雄君、俊男君、登君、それに好美ちゃん。いきなりという感じの、登君との新宿は紀伊国屋書店前での待ち合わせは、一緒にいるのに、どことなく電車の座席でお互いが向かい側の席に座っているような、純情なひと時だったのですね。
十代の頃読んだ本を、年を経て、読んでみるとしみじみとしたものを感じわうことができるでしょう。若い頃はどうしてもただストーリーを読み取ることに一生懸命で、作品を味わうことも深読みすることもなくスルーしてしまうのが実情です。読めなかったからいけないのではなく、読めなかった自分を愛しく思えて懐かしくなるのです。とは言いつつ、一度読んだ小説を読み直してみるって、なかなかできるものではありません。何度も読んだのはやっぱり短編、カフカの『掟』とか、志賀直哉の『城崎にて』くらいなものです。最後のところで井上靖『崖』を取り上げていたのは不印象深かったです。私は真っ平らな埼玉生まれですけれど、東京はもっと平らだと思っていましたら、いたるところに坂道があり高台があり、これにはびっくりしました。
希望に燃えていた紀子が、一転してパリ嫌いに陥ってしまった「章」となっています。こうしたことは身近もあります。東京に憧れていたけれど、劣等感とか、友人たちに恵まれずホームシックにかかった話は、よくあります。それの拡大版が紀子には覆いかぶさってきているのだと思います。「♪パリのひとみ。フランスの輝き」「♪ココロの中があったかい。なんだかいいことありそうな予感」と回復しそうになりながら、カラオケ・演歌「海雪」となって嫌悪感のモクアミになってしまいます。「♪私はフランスに愛されている」と、紀子のパリはフィリップだったのですが、そのフィリップは電車の中でレティシャと……、試練は続きます。〈これは「パリ症候群」とも言われるが、パリに限った話ではない〉の挿入文は、紀子の一過性の精神状態であることが窺われ、この後のパリでのパリ人・紀子の成長ぶりが展開されるのでしょう。何を学んでいくのか楽しみです。
――霊園なら瞑想の場に相応しいのではないのか――と思っての雑司ヶ谷墓地への散策です。エッセーなのでしょうが、会話文が入っているためか「小説のコーナー」に迷走しています。夏目漱石、竹久夢二、どうにか永井荷風までは辿り着けたのですが、⑧泉鏡花で迷ってしまいます。案内図では⑧なのですが、プレートでは⑥であったための迷走でした。ということで瞑想か迷走になったと落ちをつけて散策を切り上げたようです。雑司ヶ谷墓地はつとに有名です。夏目漱石の墓があるので、文学のいろいろなジャンルの方が紹介するためかもしれません。けれど、私は一度も行ったことがありません。谷中に隣接しているのではないかとぼんやりと意識していますが、定かではないのです。一度は行ってみようと、何度も思っています。
構成の整った作品です。全体を4つのパート、いわば起承転結といえるのでしょうが、「起」と「結」が現在、「承」と「転」を少年の頃の回想にして書かれています。降り立った駅には「壁一面に長尺の絵画」が迎えます。この絵が作品の要となっているのです。絵の中に目立つことなく描かれた「四肢を持たない二匹の蛇」は、核心中の核心なのです。この二匹の蛇に、訪れた悠一と寿が昇華していき、山の上に立つ安藤寿のアトリエを燃え立たせて、物語はおわります。作品を読んで不思議に思いつつ、悠一と寿の、あまり似た所のない兄弟だな、という感想でした。これは、お互いに母親似のゆえでしょう。とすると、父の不在が気になります。血族的な背景の上に展開されている小説ですが、その血族を超えた悠一と寿の兄弟意識は無言ながら静かに伝わってきます。
なんで映画をみるのか考えてみました。鏡に自分を映して見るようなものなのかと思いました。もちろん、映画は際立った現実のようなもので、とても凡々とした自分の顔とは比較になりませんが、それでも自分なのかと思えます。顔ではなく心のようなもの、それを映画という短い時間の中に通い合わせることによって、なにかしらの道筋を得、堪能せんがために見るのかもしれません。まあ、こんな考えとわりあい合致するのは、渥美清の「フウテンの寅さん」だったなあと感じます。あんなに長いシリーズを飽きもせずみていたものだと感心します。作者の映画のまとめ、コメントを読んで、改めてなんとなくわかるような気がしました。★印の数は色々だけれど、同じ数でも好印象を持った映画に対しての書き方には温かみを感じます。ふいにそんなことを感じました。