毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
思い切ったことが書かれていて、びっくりしました。でもかんがえてみれば性的なことを書くと宣言して、由比子さん自身のことを書く、書いたのですから自然な流れなんですね。しかも「この話は男女誰にもしたことがない」、そのことを書かれているわけですから、まあ、素直にびっくりするのがマナーでしょう。性的な事を快楽の側面から書くならば書けるのですが、手や足に対面するようには、なかなか書けません。性も日常なのですが、隠された日常だからだと考えます。「文藝学校」で私が担当していた女性が、歯科医院を舞台にしてのBL小説を書きました。あの部分(口腔ですが)を無防備にする感覚を行為と受け取っての、「同性愛」小説にしていました。隠れている日常にはいろいろとあるのでしょう。由比子さんは、なかなか知性的に対処・行動する女性です。
こんなふうに読んでいいのかどうかはわからないけれど、「私=かおるちゃん」が消えない記憶となって作品につづられて行きます。しかも、そのイコールは平行線でもあり、何度も何度もの「∞」となっているのです。性的な色を帯びた〈かくれんぼ〉、蝶を〈捕り〉に行った江戸川、旅館の広い廊下でボール投げをした、と綴られていき、廊下に飾られてあった「壺」を割ってしまいます。このためにかおるちゃんのお母さんは予定の電車に乗れなくなり、その次の電車に乗って「三河島駅脱線事故」に遭遇、亡くなってしまうのです。これらのことを偶然だと捉えられると事は済むのですが、タイトルのように《「私」のために何度でも描く砂絵》と、私が自らを「捕える」と、何度も反復されるところの記憶になるのです。ひとつ、ひとつのエピソードに魂を籠らせています。
小説の書き方・方法論のようなものを楽しむ方には、とても面白い作品です。「父の詩集」は、身も蓋もない言い方をすれば「狂人日記」的内容なのだと思います。狂人日記が単なる狂人日記でないのは、そこに、こちら側の現実がかげろうのように映されているからです。「あちら側」と「こちら側」と二者思考をすると、その二つの世界では組み立て方が異なるだけで、両者には共通の真実があるように表現されているでしょう。もっとも、よくはわかりませんが…。社会というものの中にある「つながり」を外して、一人一人をサラサラに描写するならば、目の前に現れるのはこんな風な世界なのかもしれません。もっとも、父が登場して、母がいて、姉が他人風にサポートしていて、私である妹・渚が何かを探そうとしています。作者が「家族」を初めて書いた作品だと実感…。
タイトル「お客様は神様か」は、直に問われると戸惑う設問です。考えた末に、世俗的にはそうだと答えてしまいがちです。けれど、そこに「待った」をかけたのが、この作品です。項目的に「節度を知る」と「女の性」の二つが、対比的に書かれているでしょう。「節度を知る」のコーナーでは、お客様は神様ではないと。「女の性」では、お客様をないがしろにすると自らに災難がふりかかる的に。「節度を知る」の導入部分で娘さんを登場させていますが、そこでの娘さんの言葉「お父さん、そんなお父さんは嫌いだ!」は、いいですね。「女の性」での一言は、「ところでトンコは元気なの」ですが、もしかすると本人は何気なく言った言葉かもしれませんけれど、なにもかもを台無しにしてしまいました。「お客様は神様か」は、接し方しだいの問題だということでしょう。
和庭からガーデニングへと続いた作者の庭づくりの顛末を、これまでの主観から離れて「まとめた」作品だと感じました。主観から離れて、その時々を見つめた己を表現しているのですから、主観であることに変わりはないのですが、言ってみれば「内省的作品」になってるのです。まさに「ガーデニング狂騒曲」です。和庭からガーデニングへの移行は作者の必然を思わせて頷かされます。和庭は作者の理想です。でも、その理想をつくり終えてしまうと、眺めているばかりに満足しないのが作者です。そこで見つけたのがガーデニングでしょう。和庭の定式と、ガーデニングの自由。なんとなくですが、和洋折衷の日本の生活様式を彷彿とさせられました。コーヒーなどを片手に、和庭にある鳥海石や筑波石に目を落とすならば、神話の昔の仙人の気分を味わえるかも……。
おもしろさと、考えさせられる、その両方を兼ね備えた作品でしょう。まあ、読者は楽しめばよいのです。今回は、水戸さんが出てきて、母から姉の就職のことを告げられ、葵のその後、そうしてわたしの恋人・飯塚君、クラスの間宮さんの退学、再度飯塚君のパンツの強要、葵の携帯の待受画像の姉の横顔、と描写され後編へと続きます。この中編を読んで感じたのは、「ひどい女」とは姉ではなく「わたし」なのではないかということでした。朝比奈君と姉は、存在するけれど登場はしません。もしかするとしっかりと存在しているがゆえに、この作品に描写されている人物のようには書かれないのではないかと思いました。この作品中に登場する人物たちは、自己の引力から飛び立つことができなくて、自分の論理に悪戦苦闘している人たちのような気がします。
中国は大きな国です。大きな国といっても、大きいというだけでピンとはきませんけれど、アメリカと全ヨーロッパと日本の人口を足したよりも大きな国なのだと言われると、その壮大さが実感されます。産業革命があった頃の世界の人口の5倍もいる国なのです。ということで、チベットでも香港でも台湾でもなく、ウイグル自治区での資源開発に絡んだ様々な問題が書かれています。推測すれば、代々引き継がれてきた土地(=故郷)と先祖が眠る墓を守りたいと思う人たちが、その権利を守るために独立派の人物の支援を受けたことによる、過酷な闘争に発展(?)していく模様が書かれているのです。この作品の視点人物は、おそらく高杉健からのものでしょう。これからの日本は、好き嫌いは別にして、中国抜きに未来を考えることはできません。
冒頭のところに「私が今まで……カラオケのお陰です」とありますが、作品全体がその通りのふくらみをもって描写されていて、とても楽しい小説に構成されています。「うたつながり」の通り、「うた」が存在感を醸しだしていて、世俗の苦しい事などはなんのその、マイクを握って唄うその瞬間にシアワセになってしまうのです。こうした生き方は、なんとなくですが縄文時代に通じる「こころ」のような気がします。佐賀弁なのでしょうか、方言も活きています。それから子沢山の家族構成も明るさに拍車をかけているでしょう。「子供を3人生む」が政府の理想的な目標です。家業が潰れても、転職を何度も繰り返しても、地域や親戚同士で助け合い生きられる、まさに故郷ここにありです。作品を作者から独立させる技術を、この作品で獲得されたのでは。万歳です。