毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回の「このくにのきずな②」は、①のシュールな感じと比較してストレートな書き方になっています。電車の中ということで共通の位置にありながら、相互にすれ違う、孤絶状態に満たされているのです。つまり、タイトルの〈きずな〉の無さのストレートな成り行きが書かれているのです。それは主語のとりかたによっても強調されているでしょう。視点人物は「彼」なのです。また描写されているのは老婆です。彼と老婆の間に何の接点も、接点の可能性すらないのです。いまのところ何故そうなのかはわかりません。おそらくこのシリーズのテーマは「そこ」にあるのだと思います。楽しみです。どちらかと言えば、私は老婆に近い年齢です。その側からみると、接点もきずなもないのに若者が情報記号にワッと盛り上がる、あの一体感は、怖いように感じられてなりません。
幻想的な作品です。雪の情景の中にいる少年と女の物語を、その〈齟齬〉をふまえつつ描写しています。齟齬について解釈すると、少年と女とはもとから恋人同士だったのです。ところが少年は女に置いて行かれてしまい、少年のまま取り残されてしまっているのです。「二人並んで、田舎道を歩いて、夕日に影を伸ばしている。その並んでいる影を踏みながら、少年は言う」場面が、この作品の核です。子供の頃、影踏み遊びはよくしました。なにも道具を使わない遊びで単純なのですが、いっしょうけんめいに遊ぶと、妙に気持が昂ってきた記憶があります。〈影を踏む〉とそのひとの命に触れ、時間を取り戻すことができる。雪の情景であり、美しい感情。このような作品をたくさん書いて欲しいと思いました。私の中にある忘れた記憶を、やさしく思い出させてくれるからです。
かなり難しい作品です。頭の中が混乱してしまい、よくは理解できません。筋道をたどれば、現在から200年後くらいの地球での出来事になるのでしょう。ボロソックス星人である「ジム」と、「ジョーンズ・田中・キング」という名の俺、それに「ジャクリーン」という女性の、三人のDNAを持つ赤ん坊が出現して作品は幕を閉じています。ボロソックス星人の陰謀を窺わせつつです。こうした設定を可能にしているのは、存在と意識を別々のものとしてとらえるからだと思います。もっとも「存在=意識」ととらえてもSFとして成り立つでしょうが…。赤ん坊の誕生は、なんとなくキリストの誕生を想起させます。ですので、誕生したあとの惑星における諸問題をも扱われたらいかがでしょうか。序があり、長い本論があり、落ち着く先には希望があるのか絶望か?
〈ろうらい〉とは「靈來」と表記するのだと、文末にいたって知りました。もっとも、知ったといってもパソコンで必死になって検索して、この漢字自体をやっと見つけたのです。漢字が表意文字であることを考慮すると、「靈」には口が3つあり、人が対になって成り立っています。「來」も人の文字が対になって來です。勝手な解釈をすると、靈は夫婦のもとに3人の子どもがいる家族像を現わしており、來はその子供たちもやがて人(女)と人(男)として結ばれ、一族の永遠に続く繁栄のための熟語なのではないかと思いました。令和を靈和と読むと、たいへんありがたく平和な感じがします。タミコさんは伯母さんから相談されて、ノートを燃やすことを進言、実行します。なんとなく、死んだ者も生きている者も幸と福あれとの願いなのではないかと熟考させられました。
確かに楽曲『ボヘミアン・ラプソディー』は伝説になるでしょう。というか、すでに伝説になっています。音楽にチンプンカンプンな私でも、そのことはわかります。ベートーヴェンの交響曲第九番が果たした、フランス革命賛歌と相似形をなすでしょう。ハプスブルク家が支配していたボヘミア地方の多民族的な自由で平和な時代を暗示することによって、象徴的に、EU統合によって開かれたヨーロッパ人であることの喜びを称えているのです。楽曲が組曲風であるのも、意味深です。この曲が流行していた当時、私は26歳でした。若い女性の友人がいまして、その方はクイーンの大ファンでした。なにがよいのか、私にはわかりませんでした。『ボヘミアン・ラプソディー』を喫茶店で初めて聴いたとき、なるほどと思いました。哲学のようなものを感じたのです。
黒潮と親潮がぶつかり合う房州を舞台につづられた壮大な物語で、これまでの作者にはなかった叙事詩的世界が展開されています。こうした作品が書けるのだ、いろんな作品が書けるというのは、すばらしいことです。安房の国の伝人であるという舟木と、村長のような貝塚、それから船に乗って渡海してきた僧侶、この3人によって構成された作品でしょう。なんといっても僧侶の補陀落渡海の捨て身行がキーになって展開されているのですが、いくぶん、テーマを盛り込み過ぎてしまったかもしれません。浄土を求めて渡海した僧侶が、浄土のような生活を営んでいた安房の国に、疫病を持ち込んでしまったのですから…。少なくとも、この作品の2倍くらいの長さにならなければ、それぞれの細部までは書けないテーマです。異言=念仏でしょうか、導かれるように読みました。
タイトルに妙に共感しました。「大人達」の言葉で大人を、一方の「迷子の」で心許ない子供のようなものを感じました。いくつになっても、心許ない気持になったときには、子供にかえったような不安な心持に迷うものです。作品の基本的な筋としては、成川真三の異母娘達、成川沙世と木村真由子の初めて対面したときの心模様が描かれています。主に真由子の側からの描写になっていますが、互いが互いを観察している〈喫茶店・みやま茶房〉のひとときです。似ているか・似てないかが互いの興味であるのは、異母姉妹の気持として、よくわかります。似てない、似てないと、相手を否定しつつ、手だけはそっくりな形をしていると落ち着きます。切っても切れない異母姉妹の血をうまく表現しているでしょう。他人と身内の出入りって、オセロゲームのようですね。
この「読書雑記」自体が、作中における久世光彦や内田百閒、夏目漱石、芥川龍之介、等々とコラボしていて、うなぎのように捉えどころがありませんでした。章題「夢の感触」がそうさせているのかもしれません。「夢の感触」は、実在するものでも意味という抽象的なものでもなく、そうした実在と抽象の中間にあるものなのだと思います。まあ、その空間をこじあけたのが内田百閒の文学的業績でしょう。それにしても、これだけ短い読書雑記に、夏目漱石・芥川龍之介といった超大物が登場すると、面食らってしまいます。久世光彦に関しては、皆さん、スキャンダラスな記憶しかないようでした。もっとも、P188下段9行目からの4行は久世光彦の文章でしょうか。確かに内田百閒を彷彿とさせて、優れた感性だなと感じ入りました。