2019年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月15日(日)
  • 例会出席者:15名

何を書こうか

 何を書こうかと思案する作者(工藤正典)。『アグルーカの行方』という著作物の作者(角幡唯介)と同行者、そこに「何を書こうか」と思案している自分(工藤正典)を作品世界に入れ夢想して、本来なら、発想して書くという創作の基本の穴埋めにしている作品です。作者は太宰治が大好きだそうです。太宰も戦前において、「カチカチ山」とか、「桃太郎」とか、本来の物語にある「意味」を転倒させたような作品をかなり沢山書いていました。けれど太宰自身を作中に入れたわけではありません。ここのところ作者は短編に徹しています。ということで皆さんから、もう少し長い作品を書くべきではないかとのアドバイスがありました。乞うご期待(作者の弁)、期待しています。

タンポポ

 いい詩ですね。「さくさく1号から75号」までを通して、これだけ長い詩は初めてです。8連で、76行の長編詩です。作品の核にあるのは「タンポポ」と「僕」ですが、タンポポとは何か、僕とは何かに関してはかなりの奥域があって、手に実感できるだけの確かさはありません。タンポポとは実相としてのタンポポではなくて、人に出会ったり、美しいものをみたりした時に、「あっ」と思う、そこに浮かんだ「心の中の笑顔」がタンポポなのかもしれません。では僕ですが、僕=タンポポなのではないかと思いました。健気なタンポポが、実相化しようと頑張っているのが「僕」なのではないか。この作品、ぜひ詩の雑誌に投稿したらいかがでしょうか。掲載されるかもしれません。

オデットの靴

 いかにも短編らしい作品です。銀座のショーウィンドウに飾られていた薄桃色の靴を何度も見て、購入したのです。視点人物の「わたし」は、その憧れた靴に合うようなドレスをつくるお針子をしていました。つくる側と、身につける側とのアンバランスが、銀座というものでしょう。出会いがあり、わたしはKとデートします。薄桃色の靴は足に合わず、痛みに耐えてのデートとなってしまいますが、Kはそれを気づき、靴屋にて履きやすい靴を勧めてくれる気遣いをしてくれます。それで天丼のシーンとなりますが、天丼には天丼なりに物語を含んでいるのです。さて、さて、ですね。「です・ます調」の文章は、作品と作者の距離を密にするところがあり、「嘘」の書けない文体です。

数字にとりつかれた男

 作者の書き方が変わったと、評判になりました。冒頭、「俺の人生は、この舞台から始まったのだろうか……」と置いて、その後に俺(戸井勝利)の躍進ぶりが書かれていきます。順調に勝ち進む「俺」なのですが、伏線的に巧妙に「浜田」を入り込ませています。この点が変わったのです。「俺」には問題がある人間として登場させ、「浜田」は悪人なのか、それとも救い人なのかわからせないまま描写していくのです。ここの部分での作品を書く作者の胆力には感心します。さあ、これから「浜田と俺」の顛末はどうなるのか。で、作品は終わっています。末尾に「つづく」とないのが気にかかります。続きを書くにしても、書かないにしても、浜田や俺のような人間描写は作品を活かします。

双六岳のスキーランナー

 山の上の別世界を描いていて、皆さん、堪能されたようです。文体が生きている、との評を檜山隆史さんから出されました。確かに、文体が作品の内容と合致しているなと感じます。短文というのか、一つの文章で一つのことを書き、閉じる文体なのです。どういうことかと申しますと、山スキーの一瞬・一瞬を、それぞれにつき一つの文章で描写しているということです。その一瞬は、一瞬のことであり、一瞬の先には何もなく、生があるのか死があるのかわからない。生や死を乗り越えて、首尾よく生をつかみ取ることができたなら、山を征服したということでしょう。山男のこうした生きざまはとても理解できませんが、平地においても日々展開されているのかも……。

奥歯に、ものが、(後編)

 エンディングノートはまだ書かれてないけれど、田野倉の頭の中に浮かぶエンディングノートに現れるのは矢原美沙子です。矢原美沙子に導かれての湯田中温泉への旅行。結果は、蜃気楼を追っていくと、蜃気楼は遥か遠くに後ずさってしまいます。このエンディングノートは未完のままで、矢原美沙子が解決しない限り「奥歯に、ものが、」の状態なのです。そこで白井多香子ですが、エンディングノートを勧めた彼女とは(小説的に)何者なのか。イメージすれば、額縁に入ったエンディングノートをかざす「若い女」なのではないでしょうか。額縁に目はいきますが、若い女にも目はいきます。それが、いかにもドロドロした詐欺地獄の現実として…。読み応えのある作品でした。

ぼくたちの、ひみつきち 11

 空海のことはあまり知りません。ほとんど知らないのに、空海のことをなぜかきらいです。極度に空海が崇められているためかも知れません。私の家の寺は真言宗・智山派でありながら…も。余計なことを述べてしまいました。「吉田ぁーは6年生」、小学生最後の夏休みです。今回は、四国八十八カ所巡りをする最後の三日間のことが書かれています。圧巻なのは「十一日目」の項でしょうか。かなり哲学的になっているのです。お婆さんがお父さんに言ったという「約束を果たすことが使命だ」との諭しには、「真心」を感じました。真心とは、自分一人で持てるものではなく、相手があっての真心なんだなあと実感しました。コロコロと転がって、人から人へと共有されるのです。

お茶目な歌人、伊東ふみ子さん、旅立つ

 追悼文です。12年前の有志による年に1回の旅行を道筋に、そこに、さまざまことを盛り込んで、楽しかった思い出をつづっています。振り返ってみれば文学旅行だったかなと思われます。『日本現代詩歌文学館』、宮沢賢治関係の「高原社』、また宮沢賢治が愛したという岩手山にある国民休暇村「網張温泉」での一泊、翌日に立ち寄った小岩井牧場、石川啄木の新婚生活をした家を訪ねたのです。かなり濃密な旅行でした。特に網張温泉での一夜は風と雪に閉ざされて、トーマス・マンの『魔の山』のごとくでありました。坂の下から吹きあがる風に立ち往生していた伊藤さん、藤原さんの顔が今でも目に浮かびます。伊東さんに比べたら、まだまだ若いのですから、頑張らなくては…。

大江戸情話 湯島の雪女郎

 要点だけをまとめた情話になっています。雪女郎と言っても、現代では嘘だということになってしまいますが、当時の時代では、すぐ隣にそうした話はたくさんあったものと思われます。実際、私の子供の頃は、「狐に化かされる」という話は信じられていました。話に聞くだけでなく、お婆さんとかホントに信じていて、狐に化かされる話が真実として語られ、周りの人も、それを真に受けていたものです。ページ数が少なかったためか、「おかじ」が演じる雪女郎や、たぶらかされる嘉兵衛の描写が省略されているので、若い人に十分な理解が得られないかもしれません。基本は「市十とおみつ」の悲恋ですし、「おかじや仙蔵」の体現する世間ですので、その点はよく書けています。