2019年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月20日(日)
  • 例会出席者:10名

映画日記 52

 この『映画日記』について、いろいろな意見が出されました。「読まれることを前提にした記録」「自分の備忘録」の意見に対して、その場合の「本人の価値判断がない」との反対意見。「自分史に近い作品、あるいは社史的な作品なのではないか」と捉える方もいらっしゃいました。そこで目を引いたのは、P149にあるフレデリック=ワイズマンを取り上げての監督論です。「……短絡的ではない批評性を帯びている。ただの現実にとどまらない、発見された現実が、鮮明に見えるのだ」。ここのコーナーの全体は〈見えるために〉の項になっていて、もしかすると作者の最も力を入れたページになっているように感じました。〈発見された現実〉とのフレーズは刺激的です。のほほんとしている者に現実は見えません。このことを理解するだけで、私たちの書く力は一段と向上します。

何となく雑記

 ゲテモノ喰いの雑記です。でも最初に登場するボラってあまり食べないのでしょうか。釣り番組で「ボラがよく釣れる」と出てきますから、一般的には食べているように思うのですが? 次に犬。またネズミとなります。最後が虫です。蜂の子だと食べられますが、カブトムシとなると大きくて食べるという感覚がしません。それゆえなのでしょうか、「食べたら」という仮定のもとで、その食べたときの実況をして作品をおわりにしています。頭は口の中、胴体は手の中に残っている。残った胴体はなくなった頭をさがして動いていた。はリアルだと思いました。最後の一文、「私は憎しみの感情で頭部を思い切り噛み砕いた」は何に向かっての〈憎しみ〉なのでしょうか。短い作品なのに、全体の構成と運びがきめ細かく組んであり、好感しました。

蒼空の彼方

 とても楽しい作品です。わくわくしました。日中の合弁の自動車会社に勤める高杉健と妻の早苗が、日露戦争時の二〇三高地に立つところから始まっています。健の中国での様々な問題や、早苗が日本を離れられない介護の問題等が綴られて、読者に大まかな事情を伝えています。そうした上で、新疆ウイグル自治区の〈問題〉が展開されるのです。ウイグル自治区に鉱山が発見され、その開発のためにウイグルの村に住む人たちを移転させなければならない、というのです。中国にとっての経済発展と、ウイグル人にとっての宗教・文化・居住権や分配の不平等等が渦巻いて、これからの展開を予測させています。独立闘争のようなものになるのでしょうか? 昨今の米中経済戦争や、各国で起こっている領土問題や、国の形をめぐる争いは、かなり〈利己的〉であるでしょう。

手首は語る

 作者の新境地なのではないでしょうか。これまでストーリーに従って書いてきましたが、今回の作品は事象の見えなかった部分を掘り下げて、ある種の構造を描いています。自殺した女性の「右手」と殺された女性の「左手」として…。こうした発想はみごとなものです。もっとも、鉄道自殺した女性のことが自殺したというだけで、何故という背景が描かれてないので、うまく噛み合ってはいません。壁に塗り込まれていた女性の左手も、その道筋がないので、読者にはよくわかりません。書くべきところを書かないで、漫画研究会等の描写にページを使ってしまったかなという思いがします。左官屋さんと大学院の女子学生の下りなど、ありえないという意見が多かったですけれど、東京電力の社長室長の女性(売春婦でもあった)を彷彿とさせられました。

野方物語

 完成度の高い作品です。合評会では、実存主義的な作品であるとか、シュールリアリズムの作品、といったような感想が述べられました。また「零子のような人は、今、けっこう多くなってきている」との意見もありました。三点測量ではありませんが、「実存主義」「シュールリアリズム」「零子」を合わせると、なんとなくですが、極楽鳥花に結ばれて感じます。作者が以前に書いた作品にて、それは零子が子供の頃のこと、初乗り料金の切符で山手線を何周もして時間をつぶす場面がありました。たぶん山手線はとてもなく大きなメリーゴーランドのようなものでしょう。山手線は、極楽鳥花が極楽鳥として飛び立つための発射台だったかもしれません。極楽鳥花の登場する作品で薬局の女性店主は、初めての〈友達〉になれそうな人物に描かれています。さて……ですね。

いつも笑っていた僕は

 かなり時制に拘って書かれた作品なのかと思いました。冒頭「教室の窓からは、自宅がよく見えた」と書き出されています。読み進めないとわからないのですけれど、これは小学生だった頃のけいすけの視点です。しかも、このことを思い出しているけいすけは、たぶん中学生か大人なのです。小学校の教室の窓から自分の家を見る、ただそれだけなのですが、この一文にはいろいろな時制が含まれていて、読み終わった段階でこの冒頭に戻ると様々な感慨を呼び起こされる構造になっています。「いつも笑っていた僕は」ですが、弟の雅史を見て僕は笑顔になるのであって、記憶の中にある自分であるのです。恵輔も左利き雅史も左利き、恵輔と千里との子供の雅也も左利きには系譜のようなものを感じて共感します。家を解体したけれど庭に白木蓮が残っていたなら、なお幸いです。

大家の女房

 見事な文章です。述語のある文章と、ない文章を組み合わせています。述語のない文章には微妙な「間」があります。その「間」の部分では時間と空間の連続性が断ち切られることになり、単に残像のような映像が現れるのです。書き出しの「はるか昔のこと。その川の流域には仙人が棲んでいたらしい」の仙人は現れませんが、その仙人の現れる時空間に〈大家の女房〉が現れて消えたのです。現在の私(真知子)と、過去の私との構造になっています。これをふいにつなぎ合わせたのは、千川の堤を車椅子に乗って散歩する老女の「もしも、あしたが、はれならば~」の歌でした。若い頃に聞いた、桜の花のたもとで歌う若い大家の女房の歌。「もしも、あしたが、はれならば~」だったのです。(若い大家の妻が若い男と「逃げた」顛末は、ちょっとリアル過ぎるかも)