2019年9月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:9月15日(日)
  • 例会出席者:11名

読書雑記 42

 おもしろい読書雑記になっています。単なる読書雑記ではなく、大きな潮流をとらえた筆者の文明観のように感じました。日本と中国のSF小説の現状。夏笳(シア=ジア)が言ったという「文明の発展を突き動かしてきた好奇心が、わたしたちにこの境界を超え、偏見とステレオタイプを打ち払い、その過程で自己認識と成長を補完せよと急き立てる」は、急進的で楽観的な科学主義を感じました。まさに、現在の中国を見るようです。想像力・勇気・積極性・連帯・愛・希望・他者への理解と共感。「一人一人が生まれながらに持ったこれらの貴重な資質は、おそらくSFがくれる一番の贈り物でもある」に、「ないものの先取り」を感じました。確かに、そうであって・そうなるといいですね。作者のジャンルにこだわらない読書には敬服します。いろんなジャンルがあって、それらの全体が「文学」なのだと思います。作者名は忘れましたけれど「黄泥街」、成程面白かったです。

砂の体

 抽象と飛躍の作品です。「砂とは/墓場である/砂の街には/砂のこぼれる音しかない」のです。巧みに「男」と「僕」の主語で、作品を形あるものに構築しています。男=砂です。僕=砂です。ところが男は男であり、僕は僕であるのです。なおかつ、砂は砂なのです。すなわち、僕が「崩れて」しまえば、僕は僕でなくなり、単なる砂になってしまうのです。「気」があって、「気」が結集した存在が僕なのです。僕は人間の振る舞いと思考、行為をします。性交をして、その性交が達成されず砂に崩れてしまう。賽の河原での石積みの永劫を感じます。きっと「砂」と「砂粒」は別個のものです。砂粒を砂にしているのは、僕の「気」なのではないでしょうか。ゆえに、僕は「砂(気)の男」を「男」と認識するのです。自分だと。抽象的な物事をリアルにとらえる力は、それだけ作者の思考力が確実なものになってきているということで、とても幸いだと思います。

Z夫人日記より ~長月~

 日記ということで、9月は30日ありますが、その内の16日について日記として書かれています。日が短くなり夜長を感じるのは、もっぱら9月においてです。暑さに悩まされなくなり、気持ちの中にストンと空隙のようなものが生じ、「名月や~」と、しみじみしたりするものです。と思いつつ作品を読むと、目に見えないくらいの鋭い月光がさしてきて、一瞬の行間の「物語」を楽しませていただきました。P173上段にある、(夫が買ってほったらかしのサボテンの鉢が当人の部屋にひとつあるだけ。生きているのだろうか)には、ほんとにハッとさせられました。「夫は生きているのだろうか」と短縮して意味をとってしまったのです。Z夫人を、あらためてZ夫人だと認識したしだいです。たくさんのAからYまでの日常をやわらかく受け入れつつ、私はZ夫人、Zの向こうにはもう何もないのだけれど、それを見て、「まあっ」なんて日記は綴られていくのでしょう。

ひどい女 前編

 ひどく面白い作品です。展開が早いのです。子供のころの姉とわたしと弟の葵。年はそれぞれ三つちがい。それがすぐに、姉16歳、わたし13歳、葵10歳となり、やがて姉が大学生となって家を出て一人暮らしを始めます。わたしも大学生になり、なんと数学科です。朝比奈君、朝比奈君はやっぱり宇宙へ行ってしまいます。やっぱりだって感じがします。そして現れた飯塚君は変わった人なんだけど、わたしには普通の人・恋人でなにごとも受け入れてОKです。飯塚君のキス、それから葵のオナニーの部分も素通りするような感じで、なんだか変だなと読書する側にとっては思われます。とはいっても、なにが変なのか、前編だけではまだわかりません。もしかしたら「わたし」が「ひどい女」なのかなんて想像を膨らましますが、なにしろ姉は家を出たままなのですから、誰がとはまだ特定できないのです。絶妙な文体と構成で展開しているでしょう。

水玉怪談

 怪談三題噺です。三番目は交通事故の目撃談。二番目は遭難したときの雷の話。この三番目・二番目はお話の前振りみたいなもので、一番目のお話をお話しするための仕掛けになっているのです。さて、猫の話・怪談等を交えながら、拾い猫の「水玉」へと語られていきます。自転車旅行など、当時の風景やら、のんびりとした情景やら、懐かしく思い出されて合評会が盛り上がりました。若い方もいますが、皆さん、それ相応の年齢なっていますものですから…。よくネズミを捕る猫、ということは立派な猫だということですが、そのことが邪険になって捨ててしまうのですが、遠くまで行って捨てて、帰ってきたら、その猫に迎えられたという落ちまでついて、思わず笑ってしまいました。その水玉を自転車旅行の帰りに荒川の河川敷で見た、というのです。水玉、女性、と変転した記憶も怪談風なら、「幽霊でもいいから会いたい/人もある」と、偲ぶ作品でした。

リョウコちゃん

 連載8回にして「完」となりました。二年と何か月かかけて完成しましたこと、お疲れ様とともに、おめでとうございます。何をどのように書いたらよいのかわからないまま、素のリョウコちゃんを一生懸命に描写、徐々にリョウコちゃんと私の二人三脚的文体を獲得されたのではないかと推測しております。いろんなことを学ばれたのではないでしょうか。作品を書いて、なんだか気になっていたリョウコちゃんのことを書いて、ああ、よかったと思えたならそれが一番の成果だったでしょう。リョウコちゃんと「私」の手を打って喜ぶ様が目に浮かびます。あまり「私」については書けませんでしたけれど、視点であり続けた、その温かい視点こそが「私」なのですから、ほんとうはいつも「私」を書いていたのです。次の作品のイメージはできているのでしょうか。せっかく掴んだ表現するという感覚ですから、さらに、いっそう磨きをかけ、楽しんでください。

こけつまろびつ、さて今日も 九

 この作品は小説なのか、エッセーなのか、これまで判断に迷っていましたが、そうか、小説なんだなと感じるようになりました。というか、エッセーのエッセーたる所以を回を重ねるごとに深めていったら、自然と小説の体になってしまったのかもしれません。うまいです。何がうまいかと言いますと、文章・文体が呼吸しているのです。血の流れる脈拍を、ちゃんと打っています。主観の勢い、客観の静かさ、それぞれが調和して、作品を充分に味わせることを邪魔しないのです。川柳『孫が来て 思い出残し 諭吉去る』には大いに笑ってしまいました。純粋に楽しいことと、諭吉のコラボというのでしょうか、思わず笑ってしまうし、ぶっちょう顔をしたお札の諭吉まで笑っているように感じられます。「孫が来て/諭吉去る」は、痛しかゆしながら、「おめでとう。『諭吉』戻ってくるね」は、さてはて、きっと、生きていることへのご褒美なのでしょう。