毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回は趣向を変えた書き方をしていて、とても楽しめました。夜の街を書いていても、いつもは女性が主役になることはありませんでした。それが今回は徹頭徹尾、女性が主役で、なお美人コンテストまで披露してくださっています。一位・二位を争うのは福岡と札幌らしいですね。なぜ美人が多いのかの根拠として、「混血」をあげていることにも納得します。似た者同士よりも、人は自分と異なる異性に惹かれるようです。これはテレビで見た遺伝子に関する番組からの安請け合いです。まあ、喧嘩するほど仲の良い夫婦ということでしょう。日本の美人地図は博多と札幌だとして、世界中を飛び廻った作者がこれまでに出会ったであろう、一番の美人はどの国にいたのでしょうか。いたるところに美人ありなのか? 地元である横浜のスナックのママの言った、「ドアは外開き」には忌憚がなく、気が許せる地元が一番だというような落ちに感じました。
よくわからない作品との感想が多かったです。作品構造を重層化しつつ、あまりにも客観的に書かれているため感情移入にいたらなかったのかもしれません。伯父と光也の関係は「フーテンの寅」さんを彷彿とさせます。天塚学園は戸塚ヨットスクールを類推します。「何事にも屈せず、よくがんばった」は、貴花田が優秀したときの、総理・小泉信一郎の言葉を想起しました。P106の「木が燃えた」には、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』を思い浮かべさせられました。「伯父の学園」とはどんな意味構造を持っているのか、見極めなければなりません。伯父と光也の関係が「学園」なのか。それとも伯父と天塚学園の関係のことなのか。線が細くなりますが、伯父と学園に入園している光也との関係なのか。三つ巴になっていて、よくわかりません。伯父にしても光也にしても、何もわからないまま、結末で暴力を予感させて終わっています。
味わいのある作品です。夫婦で散歩するなんて、とても贅沢なものです。言って見れば、心の二人三脚のようなものかもしれません。先になったり、後についたり、それでいて共に朝の日の出を「愛でる」のですから、健康そのものでしょう。田舎であってこその自由があります。都会ではあまり見かけない光景です。そうした土台を構えて、作者の作者たるゆえんの「うんちく」が披露されます。天平時代、「五石散を飲んだら歩く。それを散歩と言った」と明快です。その当時から、漢方とか鍼灸とか、いろいろと入っていたのですね。5.000年も前のアルプスの氷河から人骨が発見されて、その人体から漢方とか鍼灸の治療痕があったと言いますから、歴史はずいぶん古いのでしょう。人間は歩くことから人間になったのです。そうして現代の散歩まで続いているのです。それにしても、よい環境にお住まいになっていることは幸いです。愛でる風景、伴侶に恵まれて。
まずは「パリの意地悪 1」で、吉沢紀子の埼玉西武から東京へ、東京からパリへの描写がなされていきます。「♪」のルンルン気分は、軽薄な感じがしないでもありませんが、それが紀子の行動軌範になっています。まあ、真剣であろうが軽い気持ちであろうが、女の子ってこんなものなのでしょう。けれど、紀子はかなりのペースでパリ人になって行きます。ケーキ造りに励みます。ケーキ=芸術の捉え方は、同感です。「芸術とは何か」のところで、たぶん紀子は躓いたのではないかと思いました。芸術=文化とは、来仏したばかりの紀子にはまだわかりません。P247下段の後半にある、「自分は自分をノリコと呼んでいる」とのフランス語文法が基本なのでしょうが、とても本質的な事柄だと思いました。哲学の国なのですね。人間関係にしても、パリの街のたたずまいにしても、やはり実際に住んでいた者でないと書けないと思いました。紀子さん、がんばって。
前編にての主な出来事は、エンディングノートと湯田中温泉です。言い替えると、白井多香子と矢原美沙子です。このことは、それほど差し迫ったこととして田野倉には受け止められないのだけれど、P47下段の後半の描写、「姿が(鏡に)映り、思った以上に老けているのを見せつけられる」は、主観的自分と客観的自分との落差が現われていて、それを埋めたいという無意識が芽生えます。こうなると、信州湯田中温泉みどり荘は必然になってしまいます。仙田のおせっかいの功によるものですが、さて、どのような後編になるのでしょうか。空白の三十年の間に、矢原美沙子さんにもいろいろな人生があったことでしょう。淡い再会となるといいのですが、思わぬ問題など生じるかもしれません。『奥歯に、ものが、』はそうした暗示のように推察します。エンディングノートって、私は初めて知りました。なにかカラクリがあるのか、後編が楽しみです。
作品の完結おめでとうございます。読み終わって、あらためて生姜の蜂蜜漬けとはどんなものかと、想像してみました。まず蜂蜜の甘さが口中にひろがり、ガブリとやると生姜の苦さがその中に現れるのだと思います。蜂蜜が、アカシアの蜂蜜なら北海道にピッタリです。(アカシアはとても値段の張る蜂蜜です) 生姜の苦さは、経験上から言って子どもならではの苦さです。大人になると、蜂蜜の甘さも生姜の辛さも同様に味わうことができます。まさに「聡」を主人公しての『ジンジャー蜂蜜』なのだと思います。まわりの子供よりも早く自意識に目覚めた子供は、「私はここではない別の世界」からやってきたのではないかと思いがちです。その思い込みから脱却できれば、ありうべき「私」に無事に着地できます。自他を考えることのできる人間になるのです。過敏な聡と、不安定な存在である良子おばさん。それをジンジャー蜂蜜にして成功した作品です。
豊島加代子さんの追悼作品です。文学市場を立ち上げて、間もなくして豊島さんは入会してきました。当時は、池袋の勤労福祉会館にて例会・合評会を催していました。ドアをノックする音を聞いて、ドアを開けてみると一人の女性がいました。それが豊島加代子さんでした。「夕顔のような……」の追悼文ではありませんが、この追悼文によって、最初の豊島さんの姿をあらためてまざまざと想起しました。若くて都会的なセンスを感じさせる方でした。どこかで私よりも年上だということを知ったのですが、最後まで、年下の感じが拭えませんでした。寡黙なのだけれど、発言するときは物怖じをしないという個性的な方だったのです。作者が、追悼文を書かれたことは、とても幸いなことだと思います。個性的な方は、他の個性的な方とは根のところで合わないものがあります。疎な方とは縁もできません。包容力のある作者に心から安心できる何かが在ったのでしょう。