2019年6月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:6月16日(日)
  • 例会出席者:12名

映画日記 51

 2018年7月~10月にかけて鑑賞した、55作品が記録されています。ここのところ、記録者の記録するという、その心情なようなものがうかがえて、読むこちら側としても問いかけできるようになり楽しめます。それはコメントの長短によって現れています。今回は、15行以上にわたってコメントのある作品は、4作品でした。『万引き家族』『沖縄スパイ戦史』『乱世備忘 僕らの雨傘運動』『寝ても覚めても』の4作品です。タイムリーなので、この中で興味を持ったのは『乱世備忘 僕らの雨傘運動』でした。〈犯罪者引渡し条約〉をめぐっての反対デモということですが、マスコミで報道されるのはデモの大きさのみで、その背景や現状までは報道されていません。世界で最も裕福な香港と、豊かになったとはいえ、まだまだ貧困にあえぐ数千万の人達がいる中国、そこに問題があると思えてなりません。北京大学にある共産主義研究会などでさえ弾圧されているとか……?

脳ちゃん

 脳ちゃんの脳ちゃんとしての顛末を、弁証法的な道筋で表現された作品なのではないかと考えました。まあ、感じたと言ったほうが肩から力が抜けてよいでしょう。弁証法と見た、その弁証法の形は、正反合の「正」の部分が作品の「1」で、「反」が「2」で、「合」が「3」なのだと類推しました。哲学でおもしろいのは最初の部分です。中頃になり、終わりになるに従って、そこそこ優れた哲学においても、どこかつじつま合わせになってしまうものです。「1」で、「俺は、太陽の男だ」→「脳ちゃん回路の完成だ」→「私は、脳ちゃんだ」と、自らの「生」を措定します。「俺は、太陽の男だ」から「私は、脳ちゃんだ」までの長い煩悶が、なんとはなしに窺えます。「2」になると、純粋な脳ちゃんの定立になるのですが、現実は甘くなく、再び混乱期を迎えてしまいます。「3」にて、当初の「1」に合体して確立されるのですが、さて「脳ちゃん」はどうなるでしょうか。

アタシね。由比子 ③

 この作品のような文体を、実存的文体というのかなと思いました。というのも、最近、ある同人誌の読書会でサルトルの「水いらず」という作品を読みました。水いらずと言うけれど、水のように自由な感じのする小説でした。「水」とはセックスのことで、不能な男とセックス嫌いの女が別れようとするが元の鞘におさまるというお話です。この作品を読んで、はじめてサルトルの偉大さを知りました。その「みずいらず」の文体と共通する感じを受けました。自由、実存、ということです。まずは乳房のこと、そしてキスのことになります。15歳のときのファーストキスはおもしろかったです。神社の木陰も、グニュグニュ動くも、初めてのキスなんて言わせないぞも、不条理です。みんなで鍋をつつくなんてできないそうですが、「由比子」の内面にはまだまだ深いものがあるように感じられ、次回が楽しみです。「女」で書いているところが、とてもよいです。

旅は靴ずれ世は情け

「ツアーの安心感」「宿無しハッチ」「落ちたコイン」の、いつもの構成になっています。ところが、それがなんとなく変なのは、旅で見たものよりかは旅そのものに焦点が当てられているからでしょう。最初の「ツアーの安心感」では、初めて「年配の仲のいい姉妹」に主体を置いています。書き出しは小説を思わせるでしょう。当方は男なのでよくわかりませんが、「手探りで下着を探す」のところが不思議でした。どういうことなのか妻に聞けばよいのですが、聞いてはいけないことなのかと思い、不思議なままです。この最初の段と二段目は、小説にするととてもおもしろくなるでしょう。圧巻は「宿なしハッチ」でした。デンマークからスウェーデン、スウェーデンから再びデンマークへの宿を探しての往復は、海外旅行をしたことがない私には考えもつかないことでした。これを読んで、なんとなくヨーロッパというものが実感できました。と同時にアジアというものも。

アトリエ残照

 スタイルの整った作品です。多くの方が、これまで書いてきた作者の作品の中で一番よいとの評を述べていました。その通りだと思います。スタイルがよいというのは、作品が何事かを表現するための「形」を持っているということで、「もしかしたら文学」と充分に期待させるのです。佐伯祐三の、アトリエと採光のための大きな窓ガラスを、「私」は描こうとします。このことが『アトリエ残照』なのです。アトリエの存在は佐伯祐三の時代のものですが、窓ガラスに写る風景の像は現代です。つまり、佐伯祐三と私の相関関係(交差)を一枚の絵画に描こうとするのですが、難しかったのかもしれません。やや大城博子との恋愛感情に流されつつ、タイムリーな差別問題等に頁を費やしてしまいます。とはいえスタイル、小説というものの構造はしっかり掴んでいるので、じっくり腰を据えて書けば、名作になります。昨年の花見で訪れた林芙美子記念館、懐かしいです。

ジンジャー蜂蜜 二

 読んでいて、なんとはなしに出来事が少ないように感じました。たぶん、そのことは聡に焦点を当ててないからだと思います。ところが面白いのは、ぼんやりと展開しているにもかかわらず、物事は大きく動いているのです。「聡は良子おばさんの子供」だということが、書かれることなく知らしめられています。書きづらいからそうなったのか、そのことを意識してそうなったのかはわかりません。喉の手術に反対した良子おばさん、100回の手洗い・100回の嗽、姉の言った良子おばさんのフリン、今度は三人で東京に行く、等々の挿入が事態を突き動かしていきます。いかにも北海道らしいシャレた正月を家族全員で無事に迎えられたことは幸いです。やがて来る「春」を予感させつつ……。描写が少ないとの意見がありました。確かに、100回の手洗いにしても、それが年末だとすると、手がしびれてしまうでしょう。そんなことも丁寧に描写すると引き立ちます。

エキゾチカ

 作者の作品を書くにあたってのイメージが、ある程度わかる作品だなと感じました。現在の地中海ホテル。三十年前のエキゾチカ。この三十年をつなぐのが、ピアノ弾きの五郎です。三十年前の五郎は建築家から「彼女(絵美)に心があるって証明してくれ」と、形而上学的な依頼をうけます。こうして、エキゾチカにての建築家と絵美と五郎は「存在」となるのですが、それは個別的な存在なのであって、建築家と絵美と五郎の存在にはなりえません。建築家はバブルの申し子でしょう。ある意味、絵美も存在していなくて、それゆえヤドクガエルにての死を夢想するのです。五郎はピアノ弾きです。依頼されればどんな曲でも正確に弾く技量をもっています。音楽は時間です。ゆえに三十年を生き延びて、なお五郎なのです。バブルは今でも続いています。世界でも、日本でも。バベルの塔が神の怒りに触れて倒壊、人々は言葉を失います。理解するための言葉を失うのです。