毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
十八年かかって大学を卒業されたとの事、おめでとうございます。通常は、八年間在籍していて、卒業に必要な単位を取得できない場合には除籍となりますが、「休学」の手続きをとっていたのでしょう。普通の人にはできない様々を学んだ事と思います。ということで麻雀です。近所にできた(秋田)健康マージャンの店、池袋の雀荘「スマイル」、秋葉原の「雀友倶楽部」と、広範囲にわたっての流れ打ちです。麻雀卓は東場・南場・西場・北場となっています。現実には、東の右は北で、対面は西、左は南のはずです。麻雀での方位がなぜそうなるのか。天上界の東西南北(東北西南)の並びをひっくり返して地上に置いたのが、東・南・西・北(雀卓)なのだそうです。このように教えてくれた方がいうには、麻雀はそれゆえ天に通じる最高の博打なのだとか…。その上に健康マージャンとくれば、長寿まちがいなしです。一句――熟女もおぼこもいる麻雀荘。
空想的内面吐露小説と言ったらよいのでしょうか、まさに「イノセント・ワールド」です。初めての富士登山なのだけれど、実は二度目。「爪の再生までに更に一ヶ月かかる」とありますが、現実なら半年はかかるでしょう。けれどこれは小説です。なにしろ息子の「再生」を願ってのことなのですから、早く、早くと心は急くばかりです。影富士を見られたのは幸いでした。下りの「かえり道」は妙に饒舌なります。父と敬一との会話。馬に二人で乗っての楽しいひと時ですが、五合目に着くと敬一は消えてしまい、初めから終わりまで一人旅だったことに正気づきます。いくぶん現実と非現実の混濁感がありますけれど、そのことがかえってリアルに思えます。関東平野から見た富士山って、言うにいわれぬ美しさがあります。真っ平な平野が延々と続き、その「果て」にあるような富士山を望むと、美しいという思いだけが残ります。色々あるのに、あったのに。
新しいシリーズのはじまりでしょうか。ところでタイトルの「美味しくナイス!」は「美味しくてナイス」ではなく、「美味しくないっす」という反対の意味なのでしょうか。なかなか風刺が利いています。食に関しては人それぞれなのかもしれんが、私も「濃厚豚骨ラーメン」という文字を見ただけで、胃が持たれてしまう方です。こんなことを言っては失礼ですが、お化け屋敷は年に一度で十分で、いつもとなると辟易してしまうでしょう。でも、豚骨ラーメン最高という方がそれなりにいるのですから、不思議です。一種の社会的風潮であり、その社会に乗り遅れまいとする自己意識のなせる流行なのかもしれません。店に入ると客が一人だけ居て、その客はいそいそと出ていく、信君は取り残された不安を覚えつつ食しますが、新たな客が現れたので、先ほどの客と同様に「ごっそ、さん」をします。オシャレな軽井沢にも、このような店があるのですね?
ブラック・ユーモア的な作品なのかなと読みました。ぬるま湯につかって、そのほどよさに安住しているととんでもないことになると、鉱山のカナリアのごとく奮闘しているのが圭世です。シャカリキになって「赤ガエル」のデザインをします。つまり圭世は、他の社員がぬるま湯に満足しているのに、一人だけ茹で上がってしまった「赤ガエル」なのです。赤ガエルをデザインしている、その赤ガエルとは圭世自身のことなのです。しかし、一向に理解してもらえません。おそらく女社長だけが生き残るという設定だと思います。女社長は資本家ですので、資本に国境はありません。どこにでも自由に移動することができるからです。また、このオフィスの隠喩は日本でしょう。危機的状況にあるにも関わらず、その現実を見ようとせず、うつつを抜かしている現状に警告を発している作品です。外国から見ると、日本ってかなり危うい状況のようなのですが……。
作品とタイトルの間から滲みだす、作者ならではの体験が偲ばれます。「因縁の地」とは、そういうことです。卓司が商社に勤め、市場開拓に邁進していて、西洋→アジアときて、まだ市場開拓の及んでいないアフリカとなったとき、作者が若い頃にアフリカの発展に寄与したいと夢見た、その夢と卓司の夢とが合致して書かれているのです。もちろん、これは小説であり、作者と卓司、アフリカは作品ではありますが、書いている作者には作者が見たアフリカがありありと浮かんで見えているのではないでしょうか。卓司をややぶきっちょの感じに描写しているのも、作者の衒いでしょう。それにしてもアフリカは、作者にとって「因縁の地」であるけれど、文明にとっても究極の「因縁の地」です。なおも植民地時代の負の遺産を現代になっても払拭できずにいます。農業においても、豊富な地下資源においても、形を変えた巧妙な「搾取」「貧困」のままに置かれているのです。
言葉とは変容するものです。この作品で言えば「友達・恋人」でしょうか。友達を、うーんと友達に思うと、その友達なるものはどこまでも大きくなり、限度を超えるとパチンと消えてしまいます。言い方を変えれば、友達という観念の中にすっぽり入ってしまうと、もう友達という意味が消えてしまうのです。その時点で友達→恋人となっているのかもしれません。けれど恋人にしても同様な肥大化が生じます。中学生の紗凪と絵美は言葉に敏感だけれど、理性も闊達で、そうした中で揺れ動いているのでしょう。理性がとらえたファーストキスなのですが、そんなキスはどこにもありません。愛情面からも、行為面からも、紗凪が絵美のほっぺたにしたキスがファーストキスなのですが、それをファーストキスとして認知しないのは、口唇と口唇とのキスではないからで、それにしても「キス」と「スキ」、相互に転倒し合っている言葉なのに……まだまだ中学生です。
多くの方が、この作品を「小説」だと思われたようです。確かに小説だと思います。もっとも、理に適った細部の追求という点では、いつものエッセーの手法を残しています。近所のうるさい老人との諍いから、適切な処置を求めての一悶着を書いた作品です。合評会はおおいに盛り上がりました。各自に、ここに書かれている風景が目に見えるのでしょう。田舎の道路標識、幹線道路でないのがミソです。田舎の土地は込み入っています。田舎の人間関係も込み入っています。特に、地元の人間と都会からきた人間、日常的な煩雑な挨拶、これらを解決するには何世代もかかる問題です。行政もしかりです。土地問題も、かなり鷹揚に処理してきたために、理路整然とは運びません。美しいバラから生じた問題だけに、人間の優しさが発揮できれば物事はスムースに運ぶのでしょうが、もしかすると、その美しさ自体がやっかみになっているのかもしれません。やっかいです。