毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
文学の評論に焦点をあてて書かれています。高橋源一郎と筒井康隆と斎藤美奈子です。高橋源一郎は好きな作家です。というか、ここのところ作品を書いていないので、好きな評論家というべきでしょうか。高橋の書いた「日本文学盛衰史」は、かつて群像に連載されていて、いくつか読んだ事があります。石川啄木の章で、啄木風に詠んだ、高橋源一郎作の短歌に接して、啄木よりも啄木風であることに驚嘆しました。さすが詩人(高橋は詩人から出発しています)だと、その才能に感心しました。他者に寄り添うことに巧みです。筒井康隆はSFから純文学までのオールプレイヤーでしょう。「文学部唯野教授」は「純文学への応援歌」的な、純文学作品です。斎藤美奈子「日本の同時代小説」は、文学史のような分類が不可能になった現代を評した著作なのでしょう。作家が、鵜飼いに飼われた鵜のようになったからだと思います。その事で、上記の三者は頑張っています。
筒井康隆風な作品だと感じました。楽しく書かれている様子が伝わってきます。と同時に四苦八苦している様子も……。誰も書いたことのない「作品を」書こうとするときに感じる、作者の苦しみでしょう。でも、楽しいですよね。作品にはキーワードが二つあります。一つは「神器」です。もう一つは「妄想」です。神器は「作品に内包された」もので、妄想は「作品を内側に」内包しているのです。その二つを縦横無尽に行き来するのが「宇宙船に乗って心療内科に行こう」でしょう。とすると、この作品は、SF作品なのか、それとも純文学作品なのか、判断がつかなくなって面白いのです。今現在の、SF小説の置かれている状況なのだと思います。なにしろ、宇宙物理学やAI技術の進歩は、SF小説にとっては脅威であるでしょう。場面や内面描写をもっと丁寧に押さえると、作品にリアリティが出てきます。がんばってください。
次のような意見が出されました。「耽美な文章」「原稿用紙の書き方を踏まえている作品」「役を演じる風情がある」「思い出」「ノスタルジー」「なまめかしい」「大人の女を想像させる」「文章が整っている」「Z夫人の感じではない男性性を感じる」「クールな視点」「どう読めばいいのかわからなかった」「視点は男なのかな」、と様々でした。不思議な読後感を与える作品で、いろいろと考えさせられました。例えば「Z夫人」です。「Z」の上の線と下の線を繋ぐ斜めの線(/)に「﹅」を入れ表記する場合があります。このように、上の線・下の線・メの繋ぎと妄想すると、「メ」は男と女をつないでいるように思われてきます。それに「8月」です。∞記号を縦にすると8になります。∞の中から時間に制約されない一日を立てて、8月と「日記」の象徴にしたのが、もしかしたらこの作品なのかな、などと想像させられました。久しぶりの作者の作品、随分と端正に感じます。
堂々たる作品の完成、おめでとうございます。脱帽です。歴史はほとんどの場合、嘘が含まれています。ただ、史実が残されている場合には、嘘であるならば、いつかは訂正されます。でも神話となると、訂正作業は雲をつかむようなものでしょう。この作品はサスペンスながら、わずかな、 けれど確かな資料を駆使して、壮大なロマンを展開されています。出雲の国の国譲り神話は、単なる神話ではない事が書かれ、日本というものの成り立ちの壮大な歴史を示しているのです。そのことを背景にしつつ、現代に、つまり「花岡教授殺人事件」に焦点をあて、柳楽警部、堀田警視、大沢検事等々の尽力で真実に迫っていきます。しかし、歴史の歪曲と同じように、現代においても「嘘」を重ねる道筋になるのですが、マスコミを援用することによって一矢報います。これでめでたしとなるかどうかはわかりませんが、小説としてはこれまででしょう。お疲れ様でした。
おもしろい作品です。作者はエッセーのつもりで書いた、と述べていました。エッセーにしては書き方において客観的な部分があり、やっぱり小説を思わせます。志賀直哉などの作品は、フランスではエッセーなのだそうです。とすると、作者は知らずに、日本の伝統的な「私小説」の書き方をしているのかもしれません。出来事があって、それをすぐに自己言及的に取り入れてしまうので、いくぶんギクシャクしてしまいます。そこに「間」みたいなものを入れて描写していくと、私小説になるのではないかと思います。「間」と「描写」は、作者の課題なのではないでしょうか。グイグイ引っ張る展開は作者の武器です。「末は六十」を60歳と勘違いした方がいました。私もそうでした。今年、私の周りでも、1月22日、4月1日、4月9日と、大事な方が3人も亡くなりました。「掌で血流を感じる」私を、いつまでも、…私小説にチャレンジされたらいかがでしょう。
随筆二題、上記の表題と「危険な小説」の二作品からなっています。合評会とか創作のabcについてのコメントは、同人誌の面々にしてみれば興味があります。理想的な合評会とはどんなものなのか、長年やっていてもよくわかりません。「辛辣な批判は辞める人を作る」。どうも、はじめ柔らかく切り出して、徐々に厳しい意見を述べるのが一般的なようですね。できれば、作者にとっての課題を、作者自身が見つけ出せるようアドバイスするのが理想なのではないかと思います。もしかすると作者は自分よりも優れているかもしれないという、謙虚な目を持つと、互いの関係が有意義になります。次の「危険な小説」という章題は、「関節話法」という筒井康隆の小説のタイトルをユーモアとして使用していて、サービス精神が旺盛です。関節話法とは、間接話法をもじったもので、日本には元来なかった文章作法だと記憶しています。この説明が入ると、より面白くなったのでは。
随筆三題、この三題は直接的にはつながっていないのですが、どことなくつながっていて、そんな風に思うと落語の三題噺の味わいもあり、楽しく、ちょっと感動したりする、心と頭のリフレッシュにはもってこいの作品でしょう。一話の「吹っ飛んだ記憶」の入り方は、あっと思わせるほど秀逸です。「里子はいつもどおりに布団の上で目覚めた」のです。この「いつもどおり」がミソです。というのも、昨日は夫の緊急入院等で里子は尋常ではない半日を過ごしたのですから…。昨日と今日、非常事態といつもの日常、その落差を「いつもどおりに布団の上で目覚めた」里子なのです。死ぬ思いをしたのに思い出せない、そんなことはよくあることです。そのことを見つめて描写する作者の目はすごいです。「夕日の落ちる瀬戸内海を見に」は、岩手から姉が、姉と里子で新大阪まで、そこで姉の娘とも合流、次の日、姉と姪と里子で淡路島へと、時間と空間の流れが絶妙です。