毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
気がつくと「映画日記50」ですね。掲載50回、おめでとうございます。『さくさく』の掲載作品の中でも、この「映画日記」は特殊な位置にあります。映画ファンにとってはありがたいコーナーでしょう。もっとも、映画を観ない方には食指のうごかないコーナーかもしれません。そうした事情を踏まえた上での50回です。なかなか続けられるものではありません。敗戦後、『記録・芸術の会』という集まりがありました。花田清輝を中心に、安部公房、針生一郎、岡本太郎、玉井五一、長谷川龍生などの、30名くらいが芸術談議に花を咲かせていたそうです。絵画、演劇、音楽、文学、そして映画と、分野に拘らない総合芸術の集団だったそうです。映画と文学ということで言えば「万引き家族」を、私は小説の方を読みました。もしかしたら次回あたりの「映画日記」に掲載されるかもしれませんね。うまい小説だと思いました。リアリティには不満でしたけれど……。
好評価でした。描写がうまいとのことです。頭に浮かばせた場面を、そのまま、丹念に写し取るよう心がける文章・文体には、書かれた文章の中にその場面の活き活きとした空気感が自ずと描かれます。作為を感じさせない表現となるのです。「リョウコちゃん」シリーズを六回続けた成果が現れたのだと思います。今回の作品は主に「遠足」と「ナオちゃん」の場面の二つのことが書かれています。尾瀬の「遠足」場面からは、各自が広げたビニールシートの上の「みんなが一緒」空間と、リョウコちゃんだけが鳩に視線を当てている描写の、多角的な構図がうまく描かれているでしょう。ただ、遠足が学年単位だったのかどうか、規模の描写や先生の不在などは省略されていて不自然でもあります。鳩も尾瀬にはいないかもしれません。「ナオちゃん」のところでは、リョウコちゃんへのイジメのような場面が描かれていて、作者の内面に視線を向けた表現があります。
とても構造の整った作品です。庭の土を掘ると粘土の土が現れ、球体を作ります。もしかすると、この粘土の球体が作品の視点になっているのではないかと思われました。「斜面を転がしても割れないほどの強靭な球体」なのですから、そのように想像してしまいます。はじめて会った美奈子にその球体をあげたのも象徴的です。そうした庭に桜の木を「父」と「弟」と「私」で植えるのですが、「散る桜」の連想となっています。父が行方不明になり、弟が死ぬのですから……。父のいなくなった部屋を母が毎日掃除するのは、いつ父が帰って来てもよいように、つまり不在の家族も家族だからなのです。桜が散る花の象徴なら、ここがわが家だとの象徴でもあります。美奈子にあげた球体は、きっと美奈子の中にあって、P218「……お嫁さんになることかな」は「割れない球体」の意思でしょう。新興住宅地の作り出した新しい時代の生き方を、風として感じられる作品でした。
感想として、志賀直哉の「小僧の神様」に似た構図だとの意見がありました。作者にもその意図があったそうです。作者は高校生の頃、志賀直哉に小説の書き方についての教授を得ようと手紙を出したら、丁寧な返事をいただいたそうです。「世の中のことをよく見て、それから小説を書き始め…」とのアドバイスだったそうです。小説の書き方は、夏目漱石以来「よく見る」ことなのですね。直吉は口減らしのため丁稚に出されます。一番番頭の名が「弥吉」で先輩の丁稚の名が「捨吉」です。遣いに出された先で出会ったのが「次郎吉」です。困窮する貧乏人は好んで「吉」という名を付けるのかと、妙に感心しました。次郎吉から直吉は「弥兵衛鮨」をご馳走になります。次郎吉は、暗に、鼠小僧次郎吉なのですが、そのことは伏せられたままで、直吉は次郎吉を次郎吉としてしか知りません。恩返しに、今度は次郎吉に鮨屋でまぐろのづけを食べてもらうつもりでいるのです。