2019年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月17日(日)
  • 例会出席者:11名

ちゅうちょう騒動

〈ちゅうちょう検査〉とは何のことなのか、作品を読んで概観はわかりましたけれど、具体的にはわかりませんでした。合評会に出席した皆さんも、「ちゅうちょう検査」なるものを知っていた方はおりませんでした。パソコンで検索すると「注腸検査」とあり、「肛門からバリウムと空気を注入する」と出てきました。腸の検査は一般的ですけれど、その手法の「注腸検査」は特殊なのですね。主治医はありがたいものです。胸部の検査、胃の精密検査、そして腸の検査。総論的ではなく、各論での健康チェックをしてくださいます。自分の身体でありながら、父から子へトレースされた交々の思いが呼び起こされ、ちょっと反省させられるような蛙のことなど…、やっぱり父の事・母の事をパンパンに膨れ上がったお腹は連想させてくれます。検査は無事に終了。よかったですね。まるで奥様の放った矢が黒点に命中、「大当たりー」と拍手喝采のユーモアたっぷりの作品でした。

出雲神話殺人事件 4

 とても醍醐味のある作品です。よくあるミステリー作品だと思って読んでいましたら、歴史ミステリー作品へと、ギアが切り替えられました。この切り替えによって、作品の構造もだいぶ変わりました。三人称的一人称小説だったものが、なにかしら一人称的三人称小説に逆転して感じられるのです。このように言うと、何が何のことやらわからなくなってしまいますが、視点人物たる柳楽警部の視点を超えてしまう、歴史の視点ともいうべき新たな視点が現れているということです。縄文時代や弥生時代を別ととして、古墳時代を経て、大和族を中心に面々と続いた日本の歴史が、出雲族というより古く長く続いた歴史の存在があったのだと証明されるならば、これは確かに歴史的一大事件です。なにしろ、島国である日本が、紀元前2.500年前のメソポタミア文明の流れを組む出雲族だったとするならば、世界文明の潮流に属していたことになりますから。結末やいかにです。

線香花火はまだ 二

 この作品は、「遠花火」「線香花火はまだ」それに続く「線香花火はまだ 二」ということなのでしょう。一つ一つは短いですけれど、三篇をつなぐとなかなかどっしりした中編小説になりました。この作品は作者が「恩師の志保先生から日記を託された」ことによるものです。先生からお預かりしたノートを構成し、客観的な視点から描写しています。志保先生のノートはたいへんな分量だということを伺っています。ほんとうなら長編小説になるのでしょうが、まずは、投げ出さずに全体を描いてみたのだと思います。完成作品の形を披露してくだったということですね。お疲れ様でした。そして、おめでとうございます。母の志保、娘の陽子、恭介、そして生徒たちの人間模様は美しい風景に映えて、象徴的でもある胎内川の流れを髣髴とさせます。だいぶ前になりますけれど、作者はこの作品の第一部「遠花火」にて、「織田作之助文学賞」の優秀賞を受賞されています。

テトラポット

 三部構成になっている作品です。一章が「自律検証」。二章が「記号寄せる浜辺」。三章が「老人の海」。多くは「裕司」の視点で書かれていて、一部が「佳純」視点になっています。書かれている事柄は、どこかフワフワしているのですが、それを見つめる「視点=章題」は三人称的であり世界を意識しているように感じました。テトラポットとは何かが、やはり焦点なのかと思いました。P288上段。「でも、この頃、自分のことだけね、みんな」「記号は今も押し寄せている」「僕はスマホを佳純に見せてから、海に放り投げる真似をした」の文章を、妙にリアルに感じました。人間の言葉の世界と、ネット言語の世界の相克。2019年、新しい形の戦争が始まっているような気がします。新しい戦争……。デモに行った、行かないで右往左往するしかない人間の限界は、それが現実なのでしょう。テトラポットと、自律検証と、記号寄せる浜辺と、老人の海は、美しい言葉です。

ジンジャー蜂蜜 前篇

 とてもうまい作品だと思いました。風景と人間の関係で言いますと、近頃の小説はやたらと人間が強くなっています。一方で風景の方が強調される小説もあります。この作品においては、人間と風景とが絶妙なバランスをとっているでしょう。良子おばさんにしても聡にしても、この時代の函館に1ミリも狂いなく存在しているのです。読書をしていて、こうした感覚を読者に与えることのできる作品は、あまり多くはないです。もっとも、女流文学をあまり読んだことがないので、もしかすると褒めすぎかもしれませんが、そうなのではないかと思ったのです。後編が待たれます。作者によりますと、主人公は良子おばさんで、視点人物が聡とのことでした。北海道は新しい土地だけに、日本の中でも最もしがらみのないところだと伺っています。しがらみの薄い土地での「しがらみ」とは何のか、興味津々です。蟻に興味を持つ渉少年もまた象徴的ですね。

サイクリング

 丘の上の市役所前の広場で催された「盆踊り」を見て、至は、そして亜衣はセブンイレブンに立ち寄ります。描写は限られたものしかなされず、あとは夜と闇とに隠されているのです。つまり描写されているのは夜に浮かんだ一部でしかないでしょう。父親は死んだ。父親は死んでない。この二点だけが、急坂を下って転倒した親爺程の年齢の男との間で交わされます。至と男。亜衣は霊媒師のような存在に感じました。スポーツ自転車の空回りする車輪は、メビウスの輪のようであり、サイクル・リングであるでしょう。日常でもあれば、同時に非日常であり、闇は見えなかったものを見さしてくれます。父と子の再会を感じました。それにしても、父は生きているのか死んでいるのか、そこまではわからないままです。救急車はいつまで待っても来ません。父と至との関係は明かされないので、「深い訳」はわかりません。そのことを書いてもよかったかも……。

ゆるり、ゆるり、と

 愛犬家の作者が犬のことを書くと、まるで別人のような感じがします。無防備なんです。美紀子が心を全開にできるのは、ぽちおが美紀子を信頼しきっているからで、そこに何の疑いも持つ必要がないからです。もっとも、犬と人間の関係が皆このようなものだとは言い切れません。愛情が注がれて、それを体で受け止めることを、何度も何度もぽちおは繰り返すことにより通じ合うことができるようになったのです。一旦通じ合うと犬には「心変わり」というものがありません。P36上段3行目「おかあさん、これからはぽちおの前で夫婦喧嘩しないでよね」には笑ってしまいましたし、感心しました。私は子供のころに母からよく怒られたものです。「神様の前で悪いことをするな」と。このことと通じるものがあります。無心で見ているぽちおは、神さまみたいなものです。作者は愛犬のことを書いて、心の浄化を図っているのかと推察します。視点に迷いがありません。