毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
夏田美咲と糸井義孝のシーソーゲーム的な作品でしょう。どこかで破綻してもよさそうな恋愛関係なのですが、それが破綻せずに続いているというのは、何百万年にもわたって、様々な岐路に立ちながら途絶えなかった、猿人からホモサピエンスへと進化できた人類の歴史と、どこか相関しています。美咲は、父の後を継ぐかたちで人類学を志します。義孝は、まあ言ってみれば、人類の形骸ではなく心の方に興味を持ち、具体的には文学に進もうとしているのです。ということで、この作品は美咲と義孝を俯瞰的に表現している小説だと言ってよいでしょう。どちらかと言うと、美咲の視点による小説です。美咲はルーシーの頭蓋骨のようなもので、ルーシーの失われた脳=心が義孝の小説なのだとすれば、切っても切れない二人の関係が理解できます。NHKスペシャル『人類誕生』は、鏡に映した遠い自分を見るようで、とても魅力的な企画だと、いつも観ています。
モンスターペアレントによって招来させられた妻の死(?)だったのでしょうか。そこのところは明らかにされてはいません。残された私はモンスターペアレントに悩まされ、孤立無援となり、後追い心中するべく七福神めぐりをするのです。妻の霊と同伴して。地上の七福神と、天上の北斗七星が、なんとなく相関しているように感じさせらました。北斗の「斗」とは柄杓のことで、天上界へと「私」を掬い取ってくれる、との連想です。合評会にて、現在の教育現場はブラックだ、との意見が出されました。縦の線は、あれこれと先生に対する縛りが強いのに、それに反して先生同士の横の線は手立てが皆無なのだそうです。悲劇ですね。妻への思慕がしんしんとつたわってきます。一つひとつの七福神めぐりをする、その背後にあった現実が消えていくような切なさがあります。ムスクの香り。この香水は鹿の夫婦の互いを求め合う愛のホルモンなのだとか。
かなり堪能させられる作品です。今昔物語にあるという「染殿の后、天狗のために嬢亂せられたる語」の一点について分析した、堂々たる評論です。古典についての知識は皆無なので、詳細についてはわかりませんが、論旨が明確なので、うっすらとながらも理解できます。要は…と、省略してしまってはいけないのでしょうが、染殿の后(藤原明子)という人が、長年「物の怪」に悩まされていたけれど、これを、金剛山に住む「たふとき聖人」が加持祈祷を行い、后を快復させたけれど、紆余曲折を経て今度は聖人が鬼となって后と情交をする、という説話です。これをこのままでは記述するわけにはいかないので、作り事の工夫を施したのが今昔物語なのでしょう。この評論の優れたところは、そのやんごとなき世界を構造的にとらえている点です。絶対的「主語」と、そうでない者を見事に現わしているでしょう。なんとなく、ポスト構造主義を髣髴とさせられました。
さすがはストーリーテラーですね。破綻のない作品に仕上がっています。ところが微妙に、その破綻のなさに、いくつかの疑問符が出されました。すんなりと進み過ぎる。なめらかだけれど、屈折がない。平板な会話。などなどでした。土地柄のこととか、二人の置かれている環境とか、過不足のない描写がなされているのに「物足りなさ」を感じてしまうのはなぜなのでしょうか。それは、うまく行き過ぎることに問題があるのかもしれません。卒論とか卒業、就職、結婚などの、つまり佳織と俊彦の履歴的なものがすべてうまくいってしまうことにあるのです。さぬきうどんの一本に絞って作品を仕上げると、もしかするとよいのかもしれません。さぬきうどんと一口に言っても、その店その店によって味も歯ごたえも様々なのではないでしょうか。これまでの古代史は九州から大和へと語られてきましたが、昨今では、九州→四国→近畿・大和なのだそうですね。
タイトルの「還暦に向かう」で、視点が〈時間〉からなされていることが窺えます。そして構成は、小学生の頃と、還暦に向かう五十代後半に焦点が当てられています。小学生のときの逆上がり。五十代後半の還暦を意識してのあれこれなのです。「逆上がり」と「還暦」の描写は絶妙な対になっています。還暦って逆上がりのようなものだ、と感じられました。難問には違いないのですけれど、逆上がりができたように、なんだかんだと戸惑いながらも還暦を越えられそうです。「伊達家の娘」と「南部家の息子」との恋のスタートです。合評会に出席している皆さんは、それはそれなりの年齢なのですから、南部三郎と伊達五月の恋愛がどうなるのか、この先を読みたいと感じられたようです。小学生の逆上がり、還暦になったら難度を上げて「け上がり」になるのでしょう。P65下段の房子と初枝の会話は、とても示唆的でおもしろいと思いました。
柔らかい、屈託のない短文の文体で、何が何だかわからない〈マルチバース〉の世界へと読者をストンと誘います。「目が覚めたら、ヨメ(仮)が妹になっていた」のです。読み終わっても、菊花がキッカ、キッカが菊花と、どうしてもうまく繋がらないのですが、そうした齟齬がこの作品のミソになっています。作品が作品ですから、合評は俄然〈マルチバース〉に盛り上がりました。宇宙は無数にある。平行宇宙。だとすると、この作品は「宇宙Aと宇宙B」の交差宇宙なのではないか。こうしたチンプンカンプンな議論を楽しみました。謎解きをすれば、マルチバースはマルチバースでも、宇宙のことでもなく、子供の頃の俊秋(僕)と庄司雪也(菊花の兄)と庄司菊花(雪也の妹)のつくりだした濃密な友情の世界のことだったのです。相互に相手の身になって物事を見・判断するならば、三人が一体化することはありえることでしょう。…それにしてもマルチバースです。
連載作品は不思議なもので、次号の「さくさく」が発行される前から、その号にて「あの作品」はどんな展開を見せるのだろうかと、期待して待つのです。今回で「飛べ!鉄平」は完結しました。残念ですが、おめでとうございます。そしてお疲れ様でした。とても特異な作品だと考えさせられました。あの戦争を描いた小説はたくさんありますけれど、大概の場合は史実に則って書かれています。それなのに、この作品はそうではありません。鉄平を登場させ、鉄平の内発によって書かれた作品になっています。上からの命令ではなく、過酷な状況の中に鉄平を投げ入れての人間の生きざまを活き活きと描写しているでしょう。「飛べ!鉄平」の「飛べ!」とは何のことでしょうか。とても深く感じられます。空を飛ぶこと。〈くう〉に身を仮託すること。自由に憧れつつ、戦争の最前線を戦った鉄平は、悲劇ではありますが、やっぱり自由に向かって飛んだ鉄平なのです。