2018年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月16日(日)
  • 例会出席者:18名

黒い家

 散文なのか、散文詩なのか、それとも寓話作品なのか、迷うところです。「森の中にある、黒い家」と書き出され、〈黒い家〉の反復した描写がなされます。中ほどから白い病院に入院している「私」の事柄に及び、父と兄による入退院の可否において不可の判定に安堵するのですが、ふいに退院の憂き目(?)に会い…死んでしまうのです。作品全体が〈黒い家〉でしょう。そこで「黒い家」は主語でもあれば述語ともなり反復されます。その反復は〈掟〉〈秘密〉などの自己の力の及ばない必然によってなされるしかなく、私は傍観者です。「幸福とはなにか、私にはわからなかった」との表現は、私の奇跡の宝石であり、かすかな光であったでしょうが、「私の描いた方程式」を解けないままおわります。ずいぶんと難解な作品です。頭の中にある思索・思考のままに表現すると、このような作品になります。作品の外の作者をもう少し確かに自覚しつつ書いたら、もっとよくなります。

下子

 かなり風変わりな作品です。基本線は「下子」と「純名」の対決模様の作品でしょう。下子はお節介な女性、純名は現代的な女子大生です。過剰な親切を、個人主義に染まっている純名は〈付き合いきれない〉と感じ、迷惑がっての丁々発止の逆転劇になります。作中に導入されている「かすみの動画」、福の神と旅の僧との対決を再現しているのが、この作品です。一般的には、贈答にたいしては贈答によって返すのが「社会的な慣例」になっています。けれど、その返礼が不能な場合、服従をもって返すほかないとすれば、遠い昔ならいざ知らず、現代ではストレスになってしまいます。ならば、かすみや純名は下子に対話を申し入れればよいものを、かなり皮肉な対決を迫ってしまったのではないかと思われます。民主主義と自由が失われた「現代そのもの断裂」なのかもしれません。幸福の中に巣食う不安のようなものを感じました。

アタシね。由比子②

「さくさく」誌上でたいへん人気のある作品です。テーマが際立ち、文章が巧みだからでしょう。短文でリズムのある文章は、その句読点ごとに、文章の視点の「私」を的確に表現することができます。なお、その「私」は文字としては書かれないがために、その「私」を読者である「私」に受け取るのです。ゆえに、とても快く感じられるのです。性の解放、自由。ところが世間は「この頃と、現場はあまり変わっていない」は、確かに、そうだと思います。手塚治虫の「リボンの騎士」の誕生の話は、以前、誰かから聞いたことがあります。BL小説を書かれている方からだったかもしれません。そもそも人間は、男として、女として生まれるのではなく、胎児のときのホルモンの如何によって、男にもなり女にもなるそうです。ほんとに性って、不思議なことだらけです。

クズのファーストキス

 かなり巧みな作品です。「目に映る多くが輝いて見えていた」「紗凪の頬も、そんな輝かしい中の一つだった」と回想として書かれ、いつしか回想ではなく現実のごとくの描写に転換させています。回想でありながら、現実のごとくに表現する表現技術は、作品を重層化してより「あの頃」を象徴するでしょう。こうした書き方をすると重たい作品になってしまうのですが、それをより軽く描写できるのはすごいです。紗凪の「ほんのり赤らんだ頬」にキスしたことから、様々な展開になります。そもそも、なぜ視点人物である「わたし=絵美」はキスしたいという欲求を持ったのでしょうか。このことは後編にて明らかになるのでしょうが、構成もみごとです。ポリアンナ症候群とは何かわかりませんでした(皆さんは知っていたようです)。まあ私は、中二病と似たものかと理解して読みました。「紗凪」の「凪」は、そのことを意味しているでしょう。

ぼくたちの、ひみつきち 10

 今回の作品にて、ガラリと雰囲気が変わったと感じました。もっとも作者によると、前回、その前回と「ぼく」は成長していたとのことですが、まあ、読者に目に見える形で変化したのは今回だったのではないかと思います。「ぼく」が「ぼく」に立つ視点が現れています。それまでの「ぼく」にあった子供らしい賑やかさは姿を消し、見たものに見えるものをとらえています。このことと、作中にある「青空の好きな人たちへ」のフレーズは、作品の謎解きのようなものになっています。青空って、青空という物があるわけではありません。何もなく、どこまでいっても何もないのです。その青空を見る「ぼく」がいるだけです。そのことを小学5年生にてなんとなく自覚できた「ぼく」は幸いでもありますが、かなり複雑な未来が待ち受けることになるでしょう。〈ひみつきち〉は失われてはいけないのです。小学6年、中学1年、中学2年と、がんばれー、ヨシダです。

つくつく法師/地震・雷・火事・親爺

 つくつく法師の鳴き方(?)で、つくつく法師と鳴くのか、それともオーシンツクツクと鳴くのか、といったあれこれなのですが、なかなか人間の思考の深部をのぞかせていて、楽しめました。日本の西の方では「つくつく法師」と鳴くようです。それでもって、東の方では「オーシンツクツク」と聴いてしまいます。ひとつのことが流布してしまうと、それに類似した音を聞いた場合、流布したものを直ちに人間の脳は検索してしまうのでしょう。だから、別の音に聴く人にたいして、それは違うとなるのです。ほんとに面白いのは、何度聴いても、それはその通りにしか聴こえないのですから不思議です。鳴き声の「序奏・主奏・変奏・終奏」の鳴き声の分析描写は、度肝を抜かれました。とても繊細ですし、見ること・聞くことの応用性みたいなものを堪能しました。地震・雷・火事・親爺の寺田寅彦は、作者が寺田寅彦のように感じられ、理科系の同業者ということでしょう。

宇宙船に乗って心療内科に行こう β版

 筒井康隆みたいな作品かなと思いました。荒唐無稽な展開ながら現実と妄想の綱引きがあり、現実とは何か、妄想とは何か、といった自己定立に右往左往するのです。根本は「存在と言葉」なのですが、存在も言葉も難しくて、例えば哲学者にとっても難しくてわからないのです。おちょくるわけではありませんが、まあ、おちょくっているのが筒井康隆でしょう。こうした作品を書くのも、また難しい作業だと思います。作者はSFをずいぶんと書かれ、こうした作品にたどりついたのでしょう。四苦八苦なされて書いているのではないですか。がんばってください。新しい作風に挑戦することは、どんな場合にも好ましいことです。難しいことなら、なおさらのことです。現実と妄想は、現実空間にある「穴」みたいなものかもしれません。続編を待ちたいと思います。なお、6代続いた、300年の質屋というのは数があいません。300年なら、20~30代続いているでしょう