毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回の映画日記は2017年11月~2018年2月までの四か月間の観劇「日記」です。★印五つの作品が三作品あります。★印四つの作品が十作品ありました。たぶん、これまでの映画日記と比較してみて、この期間の観劇作品は非常に質が良かったのかなと、思われました。特に目をひいたのは、『デトロイト』(米国)という映画でした。アメリカ固有の問題としては、公民権運動とベトナム戦争反対の気運を背景にした中で発生した、人種差別に対する闘争だったのではないかと思います。また当時のフランスの学生運動や日本の学生運動などが、世界的に連動していた時代でもありました。この当時の問題は、いまだに解決されていません。反対に、当時よりも時代をさかのぼってしまっているでしょう。新聞で読んだに過ぎませんが、ヒットラーのユダヤ人迫害は、当時のアメリカにあった異人種間結婚禁止の法律条文を理想にしてなされたのだそうです。今は昔、昔は今。
この歌集の前篇「暁の花」が風景に詠み込んでいるとすれば、この「焔の果て」は「私」の個に凝縮された歌集の趣があります。「暁の花」が春から夏を詠み、「焔の果て」は冬から春を望んだ歌になっていて、折り返しの整った歌集です。特に「草花の芽吹きて熱を奏でけり寒さの種も愛せる日々に」は秀歌だと思いました。この歌で「寒さの種」の言葉は、音楽で言えば不協和音的な効果を果たしています。「寒さの種」と表現して、それは「焔」の核心でもある苦しみの言葉であるのに、それを「寒さの種」と現わすことによって、反語的な「草花の芽吹き」に転換せしめた内面の飛翔力になっています。幾たびかの春夏秋冬を経て、作者は『歌集「暁の花」・「焔の果て」』にたどり着いたのだと思われます。幸いです。おそらく作者の本分は散文、小説にあるのではないかと察しています。これからは小説にまい進されてはいかがでしょうか。もちろん、短歌や俳句も書きながら。
とてもよく創作の一瞬をとらえた、創作の決意のような作品かと感じました。白黒映画の女優の唇が赤く見える、の表現はすばらしいと思いました。夢を見ていて、そこに色彩はないのに、ある一点に限り色を感じることがあります。「もの」をよく見なさい。は、志賀直哉の言葉です。新開拓海さんが志賀直哉からいただいた手紙には、そのことが短く書かれています。「みる」ことが創作の原点でもあれば終着点でもあります。よく見た結果が「赤い唇」となったのでしょう。「創作の水」の「水」とは、本質のことです。また本質は固定的なものではなく、常に変幻自在ということでもあるでしょう。一滴、一滴をしぼりだして、コップ一杯ためるには、血のにじむ努力をしなければなりません。「これからはわたしにしか書けない小説を書くのだ」との、作者の創作宣言を感じます。とてもたのもしいです。小説を書くとは、苦痛と快楽を同時に味わう神業のようなものです。
とても不思議な作品です。特に三話の中で、一話の「箱の手」はみごとな一作となっています。タイトルは「三掌幻話」です。前回は「四掌幻話」でした。今回の作品の第一話「箱の手」からは、なにやら全体を包み込むようなところがあり、「手」と「掌」は相通じているのかなと考えさせられました。グウ・チョキ・パーのじゃんけんでもよいし、指一本、二本、三本、四本、五本でもよいのでしょう。でも意味はあるし、三作品だから三掌でしょうし、四作品なら四掌なのです。郵便箱に手を入れたら、そこに手があったというお話です。作品の中の私と妻と娘が、その手を確認します。箱の中の手も、私と妻と娘の手を確認したことでしょう。箱の中での「手と手の出会い」は、なんとなくシュルリアリズムを想起させられてしまいます。作品と読者の間は別空間になっていますが、そこに抜け穴のような郵便箱を設置、「あなた」と「作中の私」を触れさせてみせたのです。
この作品にて、作者は一皮むけたのではないでしょうか。文章がやわらかくなり、読点にためらいがありません。このことによって作品が作者から独立したのです。すると作品空間に様々なものが存在してきます。音や味、時間、動きなど。時間が重要であることは結末になって明かされます。美音ちゃん、悟、お母さん、佑人、祐一の家族をいくぶん幻想的に、かつ明るい現実として、微妙につづった作品です。美音は悟のお姉ちゃん、悟は祐一の生まれ変わり、美音にとってお母さんはお母さん。この関係が「練乳がけ」です。密度の濃い家族構成になっています。作中にある一文「雨を含んだ練り色の雲がごわごわと厚ぼったく空を覆っている」は、美音の頭の中の心模様でもあるでしょう。でも美音は練乳がけのかき氷がすきです。「乳の味」なのですから。甘い夢などではなく、甘い現実として。美音は悟のお姉ちゃん、娘を自分のお母さんに、幸福に生きているのです。
作品の導入がいかにも小説の異世界に誘ってみごとです。「誰にも似ていない」とは、知り合いを装ってただ飲みをする詐欺師のことかと思われます。ただ、このことを通して、建設会社当時のこと、中学時代のこと、もっと子供の頃と記憶を辿っていった末に、「誰にも似ていない」とは自分のことのように、微妙に変化していると感じました。うがった読み方をすれば、隣でただ酒を呑んでいる若い男は「誰でもなく」、弟の命日に振舞い酒を呑む、ただそのためにいる男でしかないのかもしれず、「私こそ」が「誰にも似ていない」男となり、ここにいるのです。建設会社の設計課にいた当時のリアリズム、中学時代の美術部の幻想、子供の頃の家族の核心、この三つを想起させてくれたのですから、詐欺師はピエロのような存在で、誰でもない私のこれからの何事をしめしてくれた恩人かもしれません。もっとうがった見方をすれば、弟かもしれません。「兄ちゃん」の声がします。
いろいろなテーマを重層的に含みつつ、現代という時代に老人問題を描いた作品だと思いました。塩見鮮一郎という差別文学の第一人者が、土地のことをうまく書けると作品が高められると発言しています。これは永井荷風『墨東奇譚』に寄せられた作品評の中で言っている言葉です。にっちもさっちもいかない老人問題を、P148下段「蟇蛙は蛇の吐き出した霧のようなものを浴びて動けないでいる。しばらくすると蟇蛙はゆっくりと蛇のほうに近寄って行く。/そのまま蟇蛙は蛇の口に飛び込んでいった」の描写は圧巻の象徴です。これは理性を失っての行動ではなく、理性を受け入れた結果の行動なのではないかと、考えられます。絶望の行動です。自然描写、風景描写に作者は優れています。秩父の風景描写と、鬼怒川の風景描写の違いをよく心得ています。平家物語、琴の音色を取り入れたのも、的確でしょう。紀行文学的作品は、私たちの今を如実に考えさせます。