2018年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月21日(日)
  • 例会出席者:10名

本当に雑記

 雑記というジャンルが、創作にはあります。「とりとめもないことを書きとめておく」という、創作の「控えの間」みたいなものに相当するでしょう。ということで『本当に雑記』のタイトルのもとに〈雑記〉の作品でした。麻雀大会の話です。一次予選(青森)、二次予選(仙台)、その次にはおそらく東京で催される全国大会という手順なのだと思います。なにかしら、文学賞の選考過程とも通じるところがあります。一次、二次という並びが文学賞と似ているだけではなく、強いものが勝ち抜くとは限らない、というところも似ています。将棋や囲碁だと、ほぼ強いものが勝ち残ります。麻雀はそうではないのです。偶然が大きく作用します。敵が三人いるのだということが、麻雀なのです。ゲームとして囲碁が最も難しいといわれますけれど、「本当」は麻雀こそが全宇宙的な無限の競技、ゲームなのではないかと思います。16人の競技者のうち2番というのは幸運なことです。  

豆猫大戦争

 ナンセンス・無意味な構造の作品なのだと理解すると、頭の運動として楽しめる作品です。「猫が」「豆を食って」「お腹を膨らませて」「乳に子の唇が触れて」「ぷくうと膨れて」「空中で破砕した」と、分節化した言葉が意味を八方に広げています。通常の理解の仕方に従うと、猫が豆を食べたのでお腹が膨れて、乳をつくることができ、その乳に子猫の唇が触れます。その次の「ぷくうと膨れて」が、文章の流れに順接しないのです。乳を飲んだ子猫が膨らんだとするのが普通なのですが、「空中で破砕した」というのは母猫らしいのです。つまり、最初の一文において起こされた言葉の意味が「破砕」されてしまうのでから、なかなか難解でしょう。さあ、「物語のはじまりはじまり」のための一文なのです。豆猫大戦争→豆猫大運動会→豆猫大戦争の道筋が頼りの作品です。飼い猫と、家に入り込む外猫とのくんずほつれつの一場面を描いて、しかもずいぶんとシュールです。  

ハッピーライフ

「退職者に対して少し冷たい」「もう少し人間に愛情を持ってもいいのではないか」「醒めた目で見た作品」「安明さんは幸せな人なんだなあ」「最後の安明と妻との会話はうまいけど…」などの意見がありました。若い勤労者と退職者を対比させて書かれていますけれど、現代をリアルに描写しているなあと感じました。そのリアルさをどのように理解するかは読者次第ということになるのでしょう。この作品については、二次会においても話し合われました。そもそもがバブル崩壊後の30 年間の不況が根っこにあるのではないか。第二次世界大戦の敗北にもかかわらず、わずか5年で復興の軌道に乗せることができたのに、なぜ、現在も経済回復の糸口さえ掴めない状況にあるのか不思議でなりません。大手術をせずに先送りした付けが「今」なのでしょう。そうですね、誰だって返り血は浴びたくはないですから。「ハーピーライフ」は、日本の現状の見事な描写なのです。  

ヤーヤの旅

 タイトルと本文とがとても合致している作品だと思いました。なにがそのように感じさせるのか考えてみましたら、「符牒」にあるのではないかと思い至りました。「ヤーヤ」は「ヤ」と「ヤ」の言葉の重なりです。「ヤ―」はイエス、またはハイの意味を表します。そこに川原家とのおつきあい、子どもたちが同級生、ご夫婦の血液型がすっかり同じであること、干支のこと、二家族(夫婦)での気ままなてんやわんやの海外旅行なのですから、まあ、お叱りも当然なことでありますし、かえって思い出に残る旅になりました。旅から帰ってみると「ヤーヤの旅」であったのです。やはり「飾り窓の女」に意見が集まりました。B型の女性は強いですね。「大和男子が恥を掻くんじゃないよ」にヤー(はい)と返答しようとも、そこはそれ、夫婦の絆にイエスなのです。夫婦円満であってこそ、私の威厳は保たれるのですから。言葉とはアクセントにあるのだと、この作品にて教えられました。  

電話帳 他二篇

〈電話帳〉〈うたかたの夢〉〈ワインのルーツ〉の三篇からなるエッセーです。「電話帳」の冒頭の末に「あの電話機は夢か、幻だったのだろうか」と置き、さらに「うたかたの夢」にて「せめて中国西部の「酒仙」までは行きたいものだ」と挟み、作者の嗜好する「ワインのルーツ」で三題噺風に書き終えています。なかなか凝った作品に仕上がっています。初期の「電話」と「スマホ」を机の上に置いて眺めると、これが同一のものだとはとても思えません。なにが異なるのかと思っても、なにもかも次元の異なるものですから、実際、比べようもないのです。現実なのに、まるで「夢を見ているよう」なのです。ならば、「ワインのルーツ」を夢見るほうが楽しいです。P197下段に書かれた「醸造用ブドウとワインはコーカサス山脈一帯が発祥の地」とは、女性が主導権を持った『アマゾネス』の治めた地でもあるのではないかと思うと、ぜひとも、ワインの夢に酔いたいものです。  

出雲神話殺人事件 Ⅲ

 大作ですね。しかも大作にありがちな中だるみのようなものがありません。終始、読者を作品に惹き込ませるリズムがあります。多くの登場人物がありながら、個々の人間の内面や風貌や仕草みたいものを想像させる書き方をしているからでしょう。もっとも、登場人物に関してはうまく表現・描写しているのですけれど、肝心の柳楽警部に関しては「前に出る」ものが不足しているように感じました。視点人物ですから、やや「私」的になっているので、あえてしないのかもしれません。作品に関しては、ここまできたら最後まで作者に楽しませいただきたいと思います。神話と柿本人麻呂、なぜ殺人事件となったのか、非常に関心があります。出雲国は歴史の上で、ここのところ大変重要になってきています。やや神話に隠されてきましたが、歴史としての研究が少しずつ進んできているように思われます。柿本人麻呂も謎の歌人。次回の「Ⅳ」が待ち遠しいです。  

四万六千日……

 浅草の縁日「ほおづき市」にちなんだ創作作品です。うまい構成になっています。「1」で、ほおづき市にて「小篭に盛ったほおづきを二つ」を求め、帰りの車中に納まります。「2」では、多恵子・香苗の姉妹、伯父の養子になったみどり、みどりの夫・俊樹との顛末を回想するのです。「3」にて、ほおづきのなくなっていることに気づき、来た道を頭の中でたどり直します。「4」で喫茶店に忘れてきたのだとの確信を得、電話をすると「ある」という。「5」で作品は、香苗の心の中のしこりがほどけておわります。ほおづき市の現実と、みどりの夫・俊樹との香苗の密事の回想が交互に織り込まれつつ、四万六千日を想起させる長い時間の一日でした。ほおづきの、ほうとは、「包」のことなのでしょうか。姉妹のこと、姉妹のように育ったみどりのこと、みどりの夫の俊樹のこと、それぞれがそれぞれに治まって、苞につつまれた「私」のご利益は浅草寺の「たまもの」でしょう。