2018年9月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:9月16日(日)
  • 例会出席者:13名

丘の上の家で

 とても静かな趣を作品から感じます。タイトルの「丘の上の家」が存在の証言者のような客観を保証しているからでしょう。毎年の正月元旦の年賀の出来事は、叔父一家の顛末、また響子一家の顛末なのですが、縦糸と横糸のように織りなされています。叔父と姪の関係のところから、姪である響子の視点は、夫の雄三と叔父の関係に徐々に絞られていっているように思われました。二人には、どことなく師弟関係、先生と弟子のような風情があるのです。もしかすると、この幸いな師弟関係を望んだのは響子さんかなと思いました。というのも、人間にとって、心から叱ってくれる人がいるということは、ありがたいことです。そのための、毎年の年賀訪問だったのではないでしょうか。「丘の上の家」には「ありがとう」の「時の風」が静かに穏やかに吹いています。  

翔べ! 鉄平

 今回の「翔べ!鉄平」7・8の章は、戦況のすさまじい激変の描写となった章でしょう。〈7章〉で勝ち戦、それなのに〈8章〉では早くも負け戦なのです。空てい部隊が活躍できるのは勝ち戦のときに限られ、負け戦の場合には有効性を失ってしまいます。〈7章〉にB-17を挿入、〈8章〉ではB-29の配備をいれているのも、戦況をよく物語っています。戦争というものを深く現わしているのは、P302上段の6行目から16行目の表現だと思いました。皆が皆狂人になる悲劇はなんともしようがありません。末尾にあるマリアナ諸島会戦の大敗は日本海軍にとって決定的だったようです。このあと1001部隊がどのように戦ったのか、次回作が楽しみです。鉄平の空を翔ぶ(=自由)がどのように展開されていくのか、作者の腕の見せ所です。まさに「翔べ鉄平」の正念場です。  

僕らの町が浮いた

 SF小説ですけれど、どことなく純文学風な書き方を取り入れているでしょう。現代における物理学の最難問である暗黒物質・暗黒エネルギーが、テーマになっているのではないかと思われるからです。町の重力が15パーセントほど減じてしまった。その原因はわかない。のところから、元に戻るまでの短期間の作品になっています。ニュートン、アインシュタイン、その後に続くであろうまったく新しい物理学の問題なのですから、現時点において解答はありません。おそらく、こうした前例に基づかない思考ができるのはAIしかないのではなかろうか、なんて、横道にそれてしまいます。原子があって、電子があって、素粒子があって、それらより大きな世界で、飯を食ってコーヒーを飲んで暮らしている私たちって何だろうと、つくづく考えさせられるテーマです。  

リョウコちゃん 5

 作者は長い作品を書けるようになりました。一生懸命に書いた賜物だと思います。すばらしいことです。物事を見つめることはなかなか困難な作業ですけれど、それができるようになって今回、私たちは「リョウコちゃん 5」にお目見えすることができたのです。作品には主に二つのシーンが描写されています。マサミちゃんとアキノちゃんとリョウコちゃんの三人で学校から家へと帰る場面。それから、学校での昼休みのブランコの場面です。ブランコは二人一組なので、リョウコちゃんは入れてもらえません。ミカちゃんとトモコちゃん。それに、アキノちゃんとマサミちゃんです。仲間になれないリョウコちゃんはずっと見ているだけです。この場面はとても長いのですけれど、作者はあえて結論をつけずに描写に徹しています。段落が長くなるのは考慮を要するかも……。  

緑一色

 です・ます調の文体には、昔物語の語りの口調があるのか、味わいのある作品だなあと思いました。緑一色(りゅういーそー)は麻雀の役満の一つですが、なぜ緑一色なのかです。「私」の父は戦時廃材を利用して玩具を造っています。いってみれば、戦う武器を玩具という子供の夢につくりかえているのです。そのことが緑一色なのではないかと想像されました。1950年の頃ということで、町も川も自然も、まだ復興されていません。戦争のない平和は世界、それが緑一色なのではないかと思うのです。麻雀は、その祈りの場だったのです。対面に神父、左手に担任だった先生、右手に同級生の友だち、そのことからも伺えます。この作品は現代から1950年の「私」を書いたものですが、さて、その現代はどうなのでしょうか。祈りである緑一色は達成されたのでしょうか。  

無人駅

 純愛小説です。難しいジャンルに堂々と挑戦していて、一読者としては拍手を送ります。おそくプロの作家でも純愛小説を書ける人は一人もいないでしょう。不健康な時代に健康な小説を書く「意味」は大きいです。もっとも、作品の大きな構成はうまく書けていますが、小さな、押さえのようなところでは粗くなってしまって、ずいぶんと損をしてしまっていると感じました。合評にも出ましたけれど、結末での看護師さんとの成り行きは蛇足だと思います。駅のベンチでの仲たがいの理由も、もっと工夫する余地があるのでは? 棺にいれた絵のモチーフも率直すぎるかと思います。そういった細部を押さえると、堂々と千葉文学賞を受賞していたかもしれません。肯定的な作品を書ける方は、本当にいません。作者にはその素質があるのですから頑張っていただきたいです。  

底 霧

 随筆のコーナーにありますけれど、冒頭の「(一)」の書き方は小説風です。ここのところ何度も日田を訪れている。その一月二十四日、最高気温がマイナス五度の寒い一日のことでありました。町の位置関係を綿密に描写して、描写した土地の中に人のつながりを付け、盆地ゆえの花月川からの「底霧」を現しています。足元から這い上がり、全身を、また町そのものをすっぽりと包んでしまう霧なのです。霧が晴れるのは、今度は足元からなのですが、その繰り返しの中で消えたままの思い出となる人も数多くいるのです。石丸邦夫→天領まつり→千年あかり…→…金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡とつながる作品は、「私」が何者であるのかの問いであり、底霧の故郷を自分に発見することでもあるのです。一世紀から三世紀の年代である「鉄鏡」の物語が、今ここに始まりました。  

文章修行、道具の変遷

 文章修行と道具となると、昔と今では考えもできないほどの相違があるのだなと、あらためて現代であることを考えさせられました。昔だったら硯や筆、上質な和紙、立派な机となるのでしょう。それが現代においては風情もありません。私たちが体験した変遷は、ワープロからパソコン、フロッピーからメモリーなのです。それも非常に短期間での変遷でした。変遷ごとにチャレンジ精神をもって挑んだ作者には、「文章表現」への熱意が溢れています。子供ためにが自己表現のためになり、小説、エッセー、あるいはドキュメントと広がってきています。物事をありのままに描写するところに、作者の才はあります。自己の視点を持ち描写して行くのですが、その反面、とてもシャイなところがあります。その隠れたシャイさが、作者の作品を大きくして行くでしょう。